ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

薩摩の伴姓橋口氏について、橋口兼弘が戦国時代に活躍、樺山資紀もこの一族から

16世紀の薩摩国に橋口兼弘という人物がいる。名前の読みは「はしぐちかねひろ」か。島津貴久(しまづたかひさ)の配下として活躍した。この人物が、なんとなく気になったのである。調べてみた。 この橋口氏は伴姓で、肝付氏の庶流とされる。名乗りは薩摩国伊…

鹿児島県内にある南朝忠臣顕彰碑/南九州の南北朝争乱【番外編】

14世紀の南北朝争乱期。南九州では激戦が繰り広げられていた。 鹿児島県内で城跡などをまわっていると、けっこう南朝忠臣の顕彰碑に出くわすのだ。そんな顕彰碑について、まとめてみた。 南九州の南北朝争乱 南朝忠臣の顕彰について 「征西将軍宮懐良親王御…

菊地田の田の神/鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手

田んぼが広がっている。ひと夏を越えて、稲が長く伸びている。そんな風景をタノカンサァ(田の神)が見守る。彩色されて、赤色がよく目立つ。 場所は鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手の菊地田(きくちだ)というところだ。 田園風景の中に タノカンサァ(田の…

「祁答院」って何だ?

「祁答院」という地名が鹿児島県にある。「けどういん」と読む。これについて、調べてみた。 祁答院の場所 「祁答院」の由来は? 南九州には「○○院」がたくさんあった 「院」とは何ぞや? 祁答院氏 祁答院郡司の大前氏 渋谷一族の祁答院氏 祁答院重武と祁答…

島津氏の薩州家のこと【後編】 島津義虎とその息子たち

薩州家(さっしゅうけ)は島津氏の分家の一つ。薩摩国に広大な所領を有し、本宗家にあたる奥州家(おうしゅうけ)から頼りにされた。あるいは、本家をおびやかす存在でもあった。 16世紀前半の島津氏では一族どうしで覇権を争った。守護家の地位を離すまいと…

島津氏の薩州家のこと【前編】 分家から本流になりかけるが……

島津氏15代当主の島津貴久(しまづたかひさ)は、もともとは分家の相州家(そうしゅうけ)の生まれだ。16世紀半ばに一族の抗争を制し、分家から島津家の本流となった。 島津貴久と覇権を争ったのが、薩州家(さっしゅうけ)の島津実久(しまづさねひさ)だっ…

大山の田の神・大山東の田の神/鹿児島県姶良市大山

鹿児島県姶良市に大山(おおやま)という地域がある。やや内陸に入ったところに田んぼが広がっている。ここにタノカンサァ(田の神)がいる。 鹿児島県や宮崎県には、田の神像があちこちにある。豊作をもたらす田の守り神だ。18世紀頃からつくられるようにな…

吉利の鬼丸神社、禰寝重長を祀る

鬼丸神社(おにまるじんじゃ)は鹿児島県日置市日吉町吉利に鎮座する。江戸時代の薩摩国吉利の領主は小松(こまつ)氏。その祖先を祀る。御祭神は禰寝重長(ねじめしげたけ)だ。 禰寝重長、一族の最盛期を築く 長い石段をのぼって 小松清廉(小松帯刀)も参…

禰寝氏(小松氏)は南九州の古族なり、小松帯刀や山本権兵衛もこの一族

江戸時代末期(19世紀後半)の薩摩藩の家老に小松清廉(こまつきよかど)がいる。「小松帯刀(たてわき)」という通称のほうでよく知られていることだろう。この小松清廉(小松帯刀)は小松氏の29代当主である。 「29代」ということは、……単純計算で「4代で1…

郡山東俣の一之宮神社、森の中に島津忠久・丹後局・惟宗広言を祀る

島津忠久(しまづただひさ)は島津氏の初代である。この人物を祀る神社が鹿児島市郡山町東俣に鎮座する。一之宮神社(いちのみやじんじゃ)がそれだ。大きな古木が立ち並ぶ森の中へと参道が伸びる。奥には立派な社殿があった。 島津氏の祖 森の中へ 18世紀に…