ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

写真が真っ白! 露出調整が不調になった、その原因はレンズの絞り羽根に

いつものように撮る。カメラの液晶画面を見て違和感を感じた。写真が真っ白なのだ。明らかに露出オーバーである。困った。 私が体験したカメラのレンズに関する出来事について、今回は記事にしてみた。同じような状況に遭遇した人の参考にでもなれば、と。 …

鹿児島神宮の本殿の裏手から参道が続く、末社の稲荷神社はなんとも不思議な雰囲気

鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は大隅国の一之宮。鹿児島県霧島市隼人町内に鎮座する。その歴史は神代から続くとされる。規模も大きく、摂社や末社も多く、稲荷神社も末社のひとつである。 こちらの稲荷神社は不思議な雰囲気。いかにも神威が強そうな感じな…

鹿児島神宮へお詣りに、ヒコホホデミノミコトと八幡様が南九州を鎮護する

鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は大隅国一之宮である。鹿児島県霧島市隼人町内に鎮座する。 ここは「神話が息づく」という言葉がぴったりの雰囲気だ。そして、南九州でもっとも大きな力を持っていたと考えられる神社で、歴史にも大きく絡んできたのである。…

新納院高城跡にのぼってみた、大軍に囲まれても落ちず、大友軍も豊臣軍も攻めあぐねた

天正6年(1578年)、島津(しまづ)と大友(おおとも)がぶつかった! 場所は日向国の高城川原(たかじょうがわら)。現在の宮崎県児湯郡木城町高城の一帯である。両軍ともに数万の兵を動員する大合戦。「高城川の戦い」「高城川原の戦い」「高城合戦」、あ…

耳川の戦い(高城川の戦い)/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(4)

天正5年12月(1578年1月)、島津義久(しまづよしひさ)は伊東義祐(いとうよしすけ)との戦いを制し、日向国(現在の宮崎県)を支配下においた。島津義久は薩摩・大隅・日向の3ヶ国の守護である。名実ともに「三州の太守」となったのである。 一方で、島津…

大友能直って何者なの? 大友氏の出自をちょっと調べてみた

大友(おおとも)氏は豊後国・豊前国(現在の大分県)を拠点に九州北部に君臨した一族である。その歴史は、大友能直(おおともよしなお)がこの両国の守護に任じられたことに始まる。 大友氏の出自を調べていくと、気になることも出てくるのである。 大友能…

田布施城(亀ヶ城)跡にいってみた、相州家の本拠地、島津貴久はここで誕生

田布施城(たぶせじょう)は薩摩国田布施(鹿児島県南さつま市金峰町)にあった山城だ。別名に亀ヶ城(かめがじょう)ともいう。現在は城跡に亀ヶ城神社が鎮座している。 この城は、島津氏の分家のひとつである相州家(そうしゅうけ)の居城だった。相州家3…

黒島神社を『三国名勝図会』より、石橋の向こう側は女人禁制だった

田園風景の中に鳥居が見つかる。山の麓に黒島神社(くろしまじんじゃ)は鎮座。なんとも独特な雰囲気の神社である。場所は鹿児島県姶良市の山田地区(姶良市上名)。県道40号沿いに小さな案内看板があり、そこから小道に入って北上すると着く。 山の麓に鳥居…

鹿児島城(鶴丸城)跡の堀は、夏になるとハスの葉に覆われる!

鮮やかな緑色の中に、ピンクの花も色を挿す。水堀にはハスが群生する。夏の鹿児島城(鶴丸城、つるまるじょう)は素敵だ! 鹿児島城は慶長11年(1606)年頃に完成。鹿児島藩(薩摩藩)の政治の拠点であった。現在の住所だと鹿児島市城山町。背後にある「城山…

佐土原城跡にのぼってみた、島津家久・島津豊久が守った日向の要衝

佐土原城(さどわらじょう)跡は宮崎市佐土原町にある。別名に「田島城(たじまじょう)」「鶴松城(かくしょうじょう)」とも。日向国のほぼ中央に位置し、中世にこの地を支配した伊東(いとう)氏の拠点のひとつであった。 戦国時代末期に島津氏の支配下と…