ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

戦国時代の南九州、激動の16世紀(4)相州家の復権、島津忠良・島津貴久は南薩摩を平定

島津氏の覇権を分家の薩州家(さっしゅうけ)と相州家(そうしゅうけ)が争う。天文4年(1535年)10月に守護の島津勝久は鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)を出奔し、薩州家の島津実久(しまづさねひさ)が実権を握った。島津実久はこのときに…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(3)島津忠良の逆襲

大永6年(1526年)の政変で、島津宗家(奥州家、おうしゅうけ)では政権移譲が成る。権力を手にしたのは、相州家(そうしゅうけ、分家のひとつ)の島津忠良(しまづただよし)だった。14代当主の島津忠兼(しまづただかね、島津勝久、かつひさ)は引退し、後…

南郷城跡にのぼってみた、この城の奪還から島津忠良が盛り返す

南郷城(なんごうじょう)は鹿児島県日置市吹上町永吉にある山城だ。別名に永吉城(ながよしじょう)とも。ここは、天文2年(1533年)に島津忠良(しまづただよし)によって攻め落とされた。その後、守護家の島津勝久(かつひさ、島津宗家14代当主)が城の奪…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(2)薩州家の急襲、島津勝久の心変わり

領国経営に行き詰まった島津宗家(奥州家、おうしゅうけ)では、大永6年(1526年)に政権交代が実行された。14代当主の島津忠兼(しまづただかね、のちに島津勝久と改名)は引退し、新たに分家の相州家(そうしゅうけ)から島津貴久(たかひさ)が養子入りし…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(1)島津忠良が実権をつかむ、本宗家を乗っ取る!?

14世紀の南北朝争乱期より、南九州はずっと戦乱が続く。守護の島津(しまづ)氏は領内統治に苦労する。反抗勢力に手を焼きつつ、一族内でも反乱が絶えず、収拾をつけられないままズルズルと時代は流れて、……激動の16世紀へ。 なお、記事内の日付は旧暦で記す…

精矛神社をお詣りした、加治木で島津義弘の勇武にあやかる

どっしりと威厳のある雰囲気の神社だ。無骨なたたずまいで、境内には静かな時間が流れている。 精矛神社(くわしほこじんじゃ)は鹿児島県姶良市加治木町日木山にある。御祭神は「精矛巌健雄命(クワシホコイヅタケヲノミコト)」。島津義弘(しまづよしひろ…

加治木館跡にいってきた、島津義弘が余生を楽しんだ居館

大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)は、島津義弘(しまづよしひろ)が晩年を過ごした地である。隠居所としたのが加治木館(かじきやかた)だ。慶長12年(1607年)から元和5年(1619年)に亡くなるまで住んでいた。 加治木館は加治木城の麓に築い…

平山城(帖佐本城)跡にのぼってみた、島津忠良・島津貴久も攻めた西大隅の激戦地

帖佐(ちょうさ)は大隅国の西の端に位置する。場所は現在の姶良市姶良地区(旧姶良郡姶良町)のあたりだ。交通の要衝であり、薩摩国との国境にも近く、たびたび戦の舞台となった。 姶良市鍋倉にある平山城(ひらやまじょう)は帖佐を代表する山城である。別…

帖佐館跡にいってきた、島津義弘は関ヶ原からここに帰還

鹿児島県姶良市鍋倉にある「島津義弘居館跡(帖佐御屋地跡)」に行ってきた。島津義弘(しまづよしひろは)は文禄4年12月(1596年1月か)から慶長11年(1606年)にかけてこの地を居館とした。「帖佐館(ちょうさやかた)」「帖佐御治所(ちょうさごちしょ)…

建昌城(瓜生野城)跡にいってきた、島津季久が帖佐に築いた豊州家の拠点

建昌城(けんしょうじょう、たてまさじょう)跡は鹿児島県姶良市西餅田にある。現在、山城の南側には九州自動車道が通る。城跡の山塊は、桜島サービスエリアからも見える。 建昌城を桜島サービスエリア(上り線)より見る もともとは瓜生野城(うりうのじょ…