ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

蒲生城跡にのぼってみた、島津氏の猛攻に抵抗した堅城

鹿児島県姶良市蒲生にある蒲生城(かもうじょう)跡にのぼってみた。標高約160mの竜ヶ山に築かれた山城で、竜ヶ城(りゅうがじょう)とも呼ばれる。竜ヶ山とは竜が爪を立て伏しているような姿からそういわれている。 蒲生城跡、西側から見上げる 『三国名勝…

南九州の南北朝争乱【まとめ】 1331年~1397年を一気にたどる

14世紀の日本は、まさに乱世である。京では足利尊氏(あしかがたかうじ)が樹立した武家政権(室町幕府、北朝)と、吉野に逃れた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の政府(南朝)が並び立つ。北朝と南朝の争いはなかなか決着がつかず、日本中が振り回される。 …

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(7) 南北朝合一へ、されど戦いは続く

九州探題の今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊)は九州平定を進めていく。九州の南朝方は勢いを失いつつあった。その一方で、永和元年・天授元年(1375年)7月の水島の変(前回記事を参照)により、島津氏は今川氏に反発。島津と今川の戦いも続いていた。 …

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(6)今川了俊がやってきた

足利尊氏(あしかがたかうじ)と足利直義(ただよし)が争った「観応の擾乱」(1350年~1352年)が収束したあと、全国的には北朝方(幕府方)が南朝方を圧倒しつつあった。しかし、九州では事情が違っていた。 rekishikomugae.net 守護家である少弐(しょう…

岩剣城跡にのぼってきた、島津義久と島津義弘が攻城戦で初陣を飾った

峻険な山が、街並みの中でひときわ存在感を放つ。それが岩剣城(いわつるぎじょう、岩剱城、岩劔城)である。その名がピッタリの鋭く屹立した山城なのだ。 場所は大隅国帖佐郷平松(鹿児島県姶良市平松)。白銀山(しろかねやま)の尾根の先端にあって、三方…

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(5) 島津と畠山の抗争

南北朝の争いは引き続き混沌とした状況に。貞和3年・正平2年(1347年)の吉野陥落をもって北朝方が圧倒するかと思いきや、幕府では足利尊氏(あしかがたかうじ)と足利直義(ただよし)の兄弟喧嘩(観応の擾乱)が勃発。幕府が分裂し、直義が南朝にくだった…

肝付氏のこととか、高山の歴史とか

南九州の歴史というと、どうしても島津(しまづ)氏ばかりが取り上げられる。というのも、薩摩国・大隅国・日向国の勝者だからだ。敗れた側の歴史は次第に語られなくなるものである。 中世に大隅国で繁栄した一族に、肝付(きもつき)氏がある。肝属郡高山(…

高山城跡にのぼってみた、肝付氏の栄華の地

鹿児島県肝属郡肝付町高山の高山城(こうやまじょう)跡にいってきた。訪問日は2021年3月某日。 大隅の覇者の本拠地 広大な山城へ踏み入る 弓張城跡にもちょっと立ち寄る 大隅の覇者の本拠地 肝付(きもつき)氏は平安時代中期から戦国時代にかけて大隅国で…

志布志城跡にのぼってみた、いくたびも争奪戦が繰り返された要衝

志布志市志布志町帖(しぶしししぶしちょうちょう)にある志布志城(しぶしじょう)跡にのぼってみた。2021年3月某日訪問。 南北朝時代から戦国時代にかけて(14世紀~16世紀)、南九州は戦乱続きだった。そんな中で志布志城では争奪戦が展開。城主は楡井(…

南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(4) 観応の擾乱の波紋

足利尊氏(あしかがたかうじ)が擁立する京の持明院統(じみょういんとう、北朝)と、吉野山(現在の奈良県吉野町)に朝廷を構えた大覚寺統(だいかくじとう、南朝)との対立を軸に、内乱は続いていく。 九州では勢力が拮抗していた。康永元年・興国3年(134…