鹿児島県薩摩川内市の高江(たかえ)に「長崎堤防」と呼ばれるものがある。17世紀に薩摩藩により整備された。この地は川内川が湾曲したところにある低地で、かつては川沿いには沼沢が広がっていた。洪水の多い場所でもあった。そこで堤防を整備し、さらには新田開発も行われた。難工事を経て堤防は完成し、高江は豊かな水田地帯となった。
普請奉行は小野仙右衛門家住(おのせんうえもんいえすみ)。この人物は、小野神社で神として祀られている。
長崎堤防
堤防には鋸歯状に出っ張ったところがある。川内川の速い流れから護岸を守る仕掛けとのこと。

堤防の建設は薩摩藩2代藩主の島津光久の命令で延宝7年(1679年)より始まった。家老の禰寝清雄(ねじめきよかつ)が小野仙右衛門家住に普請奉行を命じ、工事が始まった。川内川の流れに翻弄されて、築いては崩れ、築いては崩れ、と難工事だった。
小野家住の娘が人柱となった、という口伝もある。『川内市史 下巻』に情報あり。
難工事で打つ手に窮した小野家住は、水神を祀って願をかけた。「願わくば堤を築く位置を示し給え、もし願いをいれ給わば横はぎの当れる着物を着たる娘を奉らん」と。そうして流れに縄を投げ入れると、縄が七曲りになって岸の近くで留まった。縄の示したところに杭を打ち、工事にとりかかった。小野家住に一人娘がいた。「横はぎの当れる着物」を着ていた。
……と。この伝承の真偽のほどはわからない。
貞享4年(1687年)に堤防は完成。沼沢を埋めて新田開発もすすめられる。なお、その後も堤防がたびたび決壊。薩摩藩では改修工事を重ねた。
かつて高江はこんなふうにも言われていた。
高江田圃の泥米食よか、生まれ在所の粟がよか
「あそこはよくない土地だ」「住むもんじゃない」と。それが江戸時代末期には穀倉地帯となった。
小野神社
長崎堤防のやや下流に鳥居がある。そこに小野仙右衛門家住が祀られている。

鳥居の近くには「小野仙右衛門翁顕彰碑」も。

鳥居をくぐってちょっと登ると、墓塔と石灯籠がある。小野家住のものである。


墓塔の文字は次のとおり。
天巌清心居士
小野仙右衛門藤原家住
生年八十八
宝永三年丙戌十月十六日
法名は「天巌清心居士」。藤原姓。宝永3年(1706年)に没し、享年は88とのこと。墓塔は明和4年(1767年)の建立。

神社の裏手のほうへ下りていけるところがある。行ってみる。

しばらく行くと大きな岩があり、そこには「心」という文字。小野家住が彫ったものだと伝わる。



小野神社からは堤防も見えた。

<参考資料>
『川内市史 上巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1976年
『鹿児島県川内郷土史 下巻』
著/浜田亀峰 発行/川内市 1955年
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
ほか