『中務大輔家久公御上京日記』より。天正3年(1575年)の6月3日から6月5日のこと。島津家久(しまづいえひさ)は伊勢に参詣したあとは大和路へ。東大寺で大仏を見たり、多聞山城に招かれたり。
前回の記事はこちら。
『中務大輔家久公御上京日記』についてはこちらの記事にて。
史料は東京大学史料編纂所の翻刻より引用。
『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)
島津家久の人となりについては、こちらの記事にて。
なお、日付は旧暦。

天正3年6月3日、伊賀を越えて
三日、早朝打立、伊賀のうち入道かひといへる所、中河善十郎といへる者の宿へ立寄、卒度やすらひ、亦出行ニふる山一番寺とて有、一見候へハ、ちやたへよとありし間、其分にて、儅、打立行ニ、はったといへる村くうや次郎左衛門といへる者の宿かり枕、
八太(三重県松阪市八太町)の宿を早朝に発つ。伊賀の入道垣内(にゅうどうかいと、三重県津市白山町垣内)の中河善十郎の宿に立ち寄る。休憩してからまた出る。古山(三重県伊賀市古山堺外のあたりか)の一番寺を見ていたところ「お茶でもいかが」と勧められていただく。さらに行く。治田(はった、伊賀市治田)で宿をとる。
天正3年6月4日、猿沢池にて
四日、松の瀬の渡賃、其より北野といへる村ニ徊らひ出行は、はちふせといへるたうけを越、奈良へ入、左方ニつゝ井の城有、亦行て、心前の捨弟きたのはし新三郎といへるものゝ所へ立寄候へハ、すいはん酒にて會尺有処ニ、つくし彦左衛門といへる者来り、薩广にて参見の故、宿かすへき由申間、まかり侯へは、種々の會尺、其より其あたり一見候、猿澤の池わきもこかねくたれかミはさもこそあらめ、鮒・鯉なとの濡洗侍るに、めに留ける、さて興福寺一見、
松の瀬の渡で通行料を払う。伊賀国と大和国の境に名張川がある。ここを越えたということか。そして北野(奈良県山辺郡山添村北野)、さらに鉢伏峠(奈良市鉢伏町・鹿野園町のあたり)を越えて奈良に入る。
左手のほうには筒井城(奈良県大和郡山市筒井町)が見える。ここは筒井順慶(つついじゅんけい)の城だ。この頃は織田信長に服属している。
しばらく行くと「きたのはし新三郎」という者のところに立ち寄る。心前の弟である。心前は連歌師で、里村紹巴(さとむらじょうは)の弟子。島津家久は在京中に心前の屋敷に泊めてもらっていた。料理や酒でもてなされる。そこに「つくし彦左衛門」が来て、この人物は薩摩で島津家久と会っているという。そんなわけで「うちに泊まっていけ」と誘われる。そこを宿として、島津家久はもてなされる。
奈良をちょっと見物してまわる。興福寺(奈良市登大路町)の猿沢池(さるさわのいけ)を見る。ここで「わきもこかねくたれかミはさもこそあらめ、鮒・鯉なとの濡洗侍るに、めに留ける」と記す。猿沢池には、帝の寵愛の心変わりを恨んで采女が入水した、という伝説がある。日記のこの部分は柿本人麻呂がしたためた哀悼歌にひっかけたものだろう。こんな歌だ。
我妹子が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻とみるぞかなしき
「わきもこかねくたれかミ(我妹子が寝くたれ髪)」って言うけど、いかにもそうであろう。それよりも池を泳ぐ鮒や魚がなんだか気になる。……というのが島津家久の感想である。
そのあと、興福寺も見物。
天正3年6月5日(その一)、ミカンが気になる
6月5日の日記は盛りだくさんなので、分割して説明する。
五日、東大寺の内新褝院一見、其より大仏へ参、さて若草山・二月堂、北の方ニ手向山有、さて八幡へ参候へハ、神前ニミかんの木有、実なり色付て花も葉も枝ニましハり侍るハ、不思議ニこそ、其實ゆかしけれは、こらへて罷通、春日へ毎日両度御供とゝのふる所有、儅、へ参候へは、八乙女・はふり子神前にさふらひけるに、御神楽をあけ申候、下向に雪けの澤とて有、さて宿へ帰り會尺様々にて打立、一乗院といへる寺一見、
東大寺(奈良市雑司町)へ。そのうちの新褝院を見学した。新褝院は焼失により現存せず。そのあと大仏を見る。永禄10年(1567年)の松永久秀(まつながひさひで)と三好三人衆の戦いで、大仏殿は焼失。このときの大仏は雨ざらし。
東大寺のまわりに若草山や二月堂がある。そして手向山(たむけやま)の八幡宮を参詣する。人気では「北」としているが、現在地は東のほうだ。
八幡宮の神前にミカンがなっていた。実がいい感じに色づきつつも、花も葉も枝についている。不思議な感じ。なんでこんなことになっているのか知りたかったが(誰かに聞こうと思ったか、あるいは折って持っていきたいと思ったか)、諦めて通り過ぎた。
続いて春日(奈良市春日野町)へ。春日四所明神(春日社)を参詣すると、八乙女・祝子(巫女と神職)が御神楽を奉納していや。春日社は藤原氏の氏神である。武甕槌命(タケミカヅチノミコト)・経津主命(フツヌシノミコト)・天児屋根命(アメノコヤネノミコト)・比売神(ヒメカミ)を祭る。藤原姓を称する島津氏にとっても重要な神社だ。
帰りに雪消沢(ゆきとけのさわ)も見る。ここも和歌に詠まれる名所である。いったん宿にもどってもてなしを受けたあと、一乗院(奈良市登大路町)を見にいく。一乗院は興福寺の塔頭の一つ。廃仏毀釈で現存せず。跡地には奈良県庁などがある。
天正3年6月5日(その二)、多聞山城を見学
さて掉川を渡、多門山の城一見、其家中あまたの間、こと/\く見めくり、其内に楊貴妃の間とて有、此問よりミるに遠近の名所のこりなし、まつ伊駒のたけ・秋しの・西大寺・立田山・二上のたけ・たえま寺・天のかく山・飛鳥川・多武の嶺・吉の・初瀬・三輪・ふる山・磯の上・高圓寺・羽かい山、みな/\みゑ侍り、其二階にて山かた対馬守、此城の番也、手つからほんに山桃を入持来られ、酒をすゝめられ候、順礼支度なれハ誰とハしられしと、態手をさしあけ、其楊桃をこひとり、しはしもてまさくりけるも今は恥かし、儅、馬をさゝせらるヘき由ありしか共、順礼の身にてハと斟酌仕、
佐保川を渡って、多聞山城(たもんやまじょう、奈良市法蓮町)を見学させてもらう。松永久秀が築城したもの。松永久秀は織田信長に降伏して多聞山城を差し出している。
城内には「楊貴妃の間」があった。名前からして豪華な造りだったのだろう。そして、とにかくここから見える風景が素晴らしいものであったという。生駒山・秋篠寺・西大寺・竜田山・二上山・当麻寺・天香久山・飛鳥川・多武峰・吉野・初瀬・三輪山・布留山・石上神宮・高圓寺・羽易の山など、名所を遠近に一望できた。
2階に上がると城番の「山かた対馬守」がもてなしてくれた。山桃を手渡され、酒もすすめられた。巡礼者の身なりで誰とはわからいと思い、山桃を鷲摑みにしてまさぐりつうガツガツと食べた。あとから考えると、これは恥ずかしことをしたものだ、と。帰りに馬に乗ることもすすめられたから、「巡礼の身にて」と斟酌(しんしゃく、遠慮)した。
城番の「山かた対馬守」は山岡対馬守景佐だろう。山岡景佐は明智光秀の与力でもあった。
島津家久は山桃を食べる際にわざと下品に振る舞ったようだが、たぶん正体はバレている。明智光秀から「島津家久が奈良に行くから、多聞山城でもてなしてあげてね」と連絡があった可能性もある。
なお、多聞山城は織田信長の命令により天正5年(1577年)6月頃に破城となっている。島津家久が訪れてから2年後のこと。
天正3年6月5日(その三)、みんなで渡ろうぜ
や/\行ほとに般若寺の文珠堂といへるに、奈良衆あまたすゝ・食籠持来り酒えん、其より道のわきて遠かる泉河を渡に、わたり賃と有しかとも、山かた殿よりくハしょをもってしらぬ人をも多々召烈とをり候、其より水上ニかせ山、其東に三か原、猶行て右方にこまの渡、其より西にはゝその森、其次に井手の里・井手の玉水、猶行て寺田といへる村のちまたにて薩广の大輔の聖道に行合ぬれは、たかひに見忘れけるか、さすかあやしとやおもはれけん、追付て其名乗をし、引留られ候まゝ一宿、なら衆、紹巴の弟子宗慶同心、
般若寺(奈良市般若寺町)の文殊堂を訪れると、奈良の人たちがたくさん酒と料理を持って来て酒宴に。そのあと泉川(木津川)の渡りでは通行料をとられず。多聞山城の山かた殿から持たされた過書(通行許可書か)のおかげで。見ず知らずに人にも声をかけ、引き連れて川を渡った。
上流には鹿背山(かせやま、京都府木津川市鹿背山)が見え、鹿背山の東には瓶原(みかのはら、京都府木津川市加茂町例幣)がある。さらに行くと右手のほうに狛の渡(木津川市山城町上狛)、西には柞の森(ほうそのもり、祝園神社、京都府相楽郡精華町祝園柞ノ森)、さらに行くと井手の里・井手に玉水(京都府綴喜郡井手町井手宮ノ本)である。
「泉川」も「鹿背山」も「瓶原(みかの原)」も「狛の渡」も「柞の森」も「井手」も和歌の題材になっている場所である。「ここがそうなのか」と思いを馳せながら通過した様子がうかがえる。
寺田(京都府城陽市寺田)で山伏とすれ違った。島津家久は「いまの山伏、会ったことあるかも」と思い、気になって追いかけてお互いに名乗りあった。「薩摩大輔」という人であった。島津家に出入りしている山伏は多く、使者を務めたり情報収集をしたりも。この薩摩大輔なる山伏もそうであったのかも。
この日は奈良の宗慶という人が同行。この人物は里村紹巴の弟子である。
つづく。
<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録
鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『奈良市史 通史2』
編/奈良市史編集審議会 発行/奈良市 1994年
ほか