徳川将軍家の時代になって、薩摩藩の島津家は強固な地盤を築く。その一因には、藩主が子沢山だったこともあると思う。2代藩主の島津光久(しまづみつひさ)の子は42人(『略御系図』より)。ほかにも記録に残っていない子の存在もいた可能性もなくはない。
この42人の子について、ちょっとまとめてみたい。
- 島津光久とは
- 島津光久の妻たち
- 島津家久の子供たち
- 長男/島津綱久
- 長女/於満(佐土原藩島津久雄室)
- 次女/於辰(垂水家島津久治室)
- 三女/於西(加治木家島津久薫室)
- 次男/北郷久定
- 三男/島津忠長(北郷氏、都城家)
- 四女
- 四男/久四郎
- 五男/亀徳丸
- 六男/島津久岑(佐志家)
- 七男/島津久逵(知覧家)
- 八男/末川久侶
- 五女/於虎(日置家島津久竹室)
- 九男/鎌田正長
- 六女/於亀(入来院重治室)
- 十男/島津忠智(都城家)
- 十一男/喜入久亮
- 十ニ男/島津久明(大蔵家)
- 七女/万鶴(北郷忠昭室)
- 八女/千亀(伊勢貞顕室)
- 九女/於長(宮之城家島津久洪室)
- 十三男/島津久當(佐志家)
- 十女/虎鶴(内記家島津久文室)
- 十一女
- 十四男/外記
- 十五男/島津久記(頼母家)
- 十六男/桂久祐
- 十二女/於鶴(織田信盛室)
- 十三女/千代鶴(桂忠厚室)
- 十七男/畠山基明
- 十四女/千代松(種子島久基先室)
- 十五女/鶴千代(頴娃久明室)
- 十六女/安千代(肝付兼柄室)
- 十七女/袈裟千代(種子島久基後室)
- 十八男/入来院重矩
- 十九男/島津久房(岩崎家)
- 十八女/松鶴(市成家島津久輔室)
- 十九女/亀松(助之丞家島津忠伴室)
- 二十男/末川久雄
- 二十女/亀千代
- 二十一女/徳鶴(北郷久嘉室)
- 二十一男/税所久皎
なお、日付は旧暦。
ちなみに、初代藩主の島津家久(いえひさ、島津忠恒、ただつね)は十六男十六女が記録に残る。詳細はこちらの記事にて。
また、島津氏の分家はものすごく多い。島津家久と島津光久の子は、これらの家に養子入り、嫁入りした。藩主の血で乗っ取られた家も少なくない。分家については別記事でもまとめている。
島津光久とは
元和2年(1616年)6月2日の生まれ。島津家久(島津忠恒)の次男。母は島津忠清(ただきよ)の娘。ちなみに島津忠清は薩州家の出身。島津義虎(よしとら)の三男で、母は島津義久(よしひさ)の長女。島津義弘(よしひろ)の孫であるとともに、島津義久の血もひいている。また、島津家久の正室である島津義弘三女(亀寿)が養母となっている。
幼名は「虎寿丸」。初名は「忠元」で、将軍の徳川家光の偏諱で「光久」と名乗るようになった。通称は「又三郎」。官位は「従四位下」「従四位上」「薩摩守」「大隅守」「侍従」「左近衛権少将」「左近衛権中将」など。
寛永15年(1638年)に家督を継承し、貞享4年(1687年)に隠居するまでおよそ50年にわたって藩主を務める。長い治世で薩摩藩の基礎を築く。また、島津光久が島津氏の本姓を「藤原」から「源」に改めている。鹿児島磯(鹿児島市吉野町)の仙厳園(せんがんえん)を造った人物でもある。
元禄7年11月29日(1695年1月)没。享年79。法名は「寛陽院殿福昌寺殿泰雲慈温大居士」。
ちなみに最後の子となる二十一男は貞享4年(1687年)の生まれ。このとき島津光久は70歳を過ぎている。すごいな。

島津光久の妻たち
正室・継室のほか側室も多い。系図には母が「家女房」とだけ書かれた子も多い。こちらは出自も名もわかならない。
正室/伊勢大隅貞豊の娘
嫡男と長女を産む。法名より「曹源院」とも呼ばれる。
父の伊勢貞豊(いせさだとよ)は伊勢貞昌(さだまさ)の嫡男。祖父の伊勢貞昌は島津家久・島津忠恒の二代にわって家老を務めた。江戸時代初期の薩摩藩の屋台骨を支えた藩主の側近である。なお、伊勢貞豊が早世したため、島津家久の十四男を養子に迎え入れて伊勢氏の家督をつがせている。こちらは伊勢貞昭(さだあき)と名乗り、兄の島津光久の家老となっている。
伊勢氏はもともと有川氏を称した。有川氏は池大納言平頼盛の後裔を称し、16世紀末に伊勢氏の許しを得て、「有川」から「伊勢」に名乗りを改めた。ただし、有川氏は本来は中原姓とも。
万治元年(1658年)没。法名は「曹源院殿恵山永泉大姉」。
継室/平松時庸の養女(交野時貞の娘)
十一女(夭折)を出産か? 十二女の養母。法名から「陽和院」と呼ばれる。
養父の平松時庸(ひらまつときつね)は桓武平氏嫡流の公家。西洞院時慶(にしのとういんときよし)の次男が分家して平松家を起こした。また、父の交野時貞は西洞院時慶の六男で、こちらも分家を起こしている。
正徳元年(1711年)8月12日没。法名は「陽和院殿本獄自勝大姉」
松澤八右衛門の娘
次女と次男の母。
父の松澤八右衛門についてはよくわからない。禰寝氏の一族に松澤氏があるが、この系統なのかは確認できず。
黒田友右衛門頼清の娘
三女の母。
父の黒田頼清(くろだよりきよ)は町人から士分に抜擢された人物だという。朝鮮へ渡海して島津義弘の陣に加わり、泗川の戦いなどで活躍。その後は、庄内の乱や関ヶ原の戦にも従軍した。
比志島宮内少輔国隆の娘
四女の母とされる。
比志島国隆(ひしじまくにたか)は島津家久の家老。その父の比志島国貞(くにさだ)も家老で、島津家久の「忠義の老臣五人」の一人。
比志島氏は薩摩国日置郡比志島(鹿児島市皆与志町など)を本貫とする。志田義広(源義広)の子が薩摩に流され、大蔵氏との娘との間に子が生まれたとされ、その子を祖とする。ただ、系図はちょっとあやしい感じがする。実際には大蔵氏の一族だろう。また、流罪の際に島津忠久が世話をしたとされ、中世より島津氏に仕える。
なお、比志島国隆は寛永5年(1628年)に罪に問われて屋久島に配流。島で切腹させられている。
萩原与右衛門の娘
四男の母とされる。父の詳細不明。南九州の萩原氏には伴姓肝付氏の支族があるが、この一族か?
石原佐渡の娘
五男の母とされる。
父の石原佐渡は島津家久の包丁人(料理番)。薩摩の石原氏には伊集院氏の支族があるが、この一族か?
救仁郷天神坊頼重の娘
六男の母。
父の救仁郷天神坊頼重は飯隈山飯福寺の別当。熊野系の山伏か。飯福寺は島津家より大事にされ、歴代当主の寄進も多い。島津家久も改修などを行っている。また、島津家久は救仁郷家に鹿児島の屋敷も与えた。、
救仁郷氏は源姓を称するが、もともとは伴姓肝付氏の一族っぽい。
津留筑右衛門正将の娘
八男を生む。
実家の津留(つる)氏についてはよくわらず。『本藩人物誌』によると、津留九兵衛という人物が、島津忠恒(島津家久)のお供として朝鮮に出征。この人物と関係があるのかな?
新納佐左衛門忠頼の娘
五女・六女・十女を産む。
父の新納忠頼(にいろただより)は新納氏庶流で、新納忠武の次男から続く家系。
新納氏は島津忠宗(ただむね、島津氏4代当主)四男の島津時久より始まる。足利尊氏より日向国新納院(宮崎県児湯郡のあたり)を与えられたことが名乗りの由来。中世には日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市)を領し、島津氏の外戚としても大きな力を持っていた。
玉利九兵衛重親の娘
十男と十六女を生む。父の詳細はわからず。
有馬新左衛門純実の娘
九女を生む。
父の有馬純実は島津義弘に仕えた。主君に従って帖佐・加治木に住んだのち、鹿児島に移って島津家久に仕えた。「純」を通字とすることから、肥前有馬氏と同族か。
松元佐次衛門の娘
十三男の母とされる。父の詳細不明。
塩田与左衛門国実の娘
十六男を生む。また、十八女の母か? 父の詳細はわからず。
岩山半兵衛直朝の妹(岩山三左衛門光期の娘)
十二女の母とされる。
兄の岩山直朝は足利氏の支族を称する。下野国の那須烏山城(栃木県那須烏山市)の成田氏に仕えていたが、御家騒動があって成田氏が改易された。岩山三左衛門は浪人となり、江戸へ移り住んだ。そして、縁があって江戸で島津光久に召し抱えられた。
濱田勘左衛門純昌の娘
十五男と十九男を生む。父の詳細は不明。
味方権左衛門正信の娘
十七男を生む。父の詳細はわからず。味方氏は江戸の人とも。
津田氏の娘
十七女の母とされる。父の詳細はわからず。
和泉茂兵衛忠参の姉(和泉小兵衛忠親の娘)
十七女の養母となる。島津光久の御局に出仕。津田氏の娘が出産後に亡くなったため、十五女の養育を命じられた。宝永2年(1705年)に江戸で没。享年77。法名は「法林永救尼庵主」。
島津一族の和泉氏の庶流。和泉忠直(いずみただなお)次男の和泉勝久から続く家系を称する。和泉氏は島津忠宗次男の島津忠氏(ただうじ)に始まる。名乗りは薩摩国和泉(鹿児島県和泉氏)に由来する。応永24年(1417年)の鳴野原合戦で和泉直久(なおひさ)が戦死し、嫡流は断絶した。
戦国時代に三島筑後という人物が島津義久に仕えていた。島津義久が次女を島津彰久(てるひさ)に嫁がせる際のお供に命じられ、そのまま垂水島津家の家臣となった。
この三島筑後の子が和泉忠泰を名乗る。三島筑後の妻の伯父が和泉久正といった。和泉久正は加治木の肝付兼演の家臣。和泉久正の家督は三河筑後の子がつぐことになった。その和泉忠泰の子が和泉忠親で、その次男の和泉忠参は鹿児島で仕えた。姉の縁故による登用だったようだ。
税所市兵衛の娘
二十一男を生む。島津光久にとって最後の子だ。
税所(さいしょ)氏は、大隅国曽於郡に平安時代以前より住んでいる一族。藤原姓を称するが、かつては檜前(ひのくま)姓を名乗っていたとも。税所市兵衛は島津筑後(都城家の島津久龍か)の家臣。
島津家久の子供たち
長男/島津綱久
島津綱久(つなひさ)は島津光久の世子となる。寛永9年(1632年)4月1日生まれ。母は伊勢貞豊の娘。幼名は「虎寿丸」。初名は「島津久平」。将軍の徳川家綱の偏諱を賜って「綱久」と名乗る。通称は「又三郎」。官位は「従四位上」「薩摩守」「侍従」。
正室は松平定頼(まつだいらさだより、久松松平家)の長女。三男二女を生む。側室は伝わっていない。松平定頼は伊予国の松山藩(愛媛県松山市)の藩主。ちなみに松平定頼の母は島津家久の養女で、島津義弘の長女の子である。
寛文13年2月19日没。享年42。法名は「泰清院殿観山良無大居士」。父に先だって亡くなり、島津綱貴は家督をついでいない。嫡男の島津綱貴(つなたか)が3代藩主となる。
長女/於満(佐土原藩島津久雄室)
寛永11年(1634年)6月16日生まれ。母は伊勢貞豊の娘。慶安5年(1652年)1月11日没。享年19。法名は「徳雲院殿実参貞眞大姉」。
佐土原藩の島津久雄に嫁ぐ。佐土原藩は日向国の佐土原(宮崎市佐土原町)を拠点に児湯郡などに所領を持つ。島津以久(もちひさ)に始まり、島津久雄は3代目の藩主。島津以久は島津忠良の次男の島津忠将(ただまさ)の子で、島津貴久の弟の家系。大名として扱われるこの家との関係を、島津光久も重視したことがうかがえる。
次女/於辰(垂水家島津久治室)
寛永17年(1640年)6月23日。母は松澤八右衛門の娘。元禄3年(1690年)9月23日没。享年51。法名は「瑚窗貞珊大姉」。
当初は島津久予に嫁ぐも離縁。島津久予は喜入氏の出身で、日置家の島津久慶の猶子となっていた。しかし、島津久慶は死後に系図から削られる事態となり、島津久予も喜入家に戻った。離縁もこの事件にからんでのことか?
そして、大隅国垂水(たるみず、鹿児島県垂水市)を領する垂水島津家に嫁ぎ、島津久治(ひさはる)の正室となる。垂水家は島津忠将・島津以久に始まる家で、佐土原藩とも同系統。本家に次ぐ「脇の惣領」として扱われる。長女も佐土原藩に嫁いでいて、この家系との関係を重要視していることがうかがえる。
島津以久の孫の島津久信(ひさのぶ)は、島津義久の次女(「新城」と呼ばれる)を母としている。一時は、島津義久の後継者候補にもなり、島津家久(島津忠恒)にとっては煙たい存在であった。垂水家にはトラブルがあり、島津久信の子は家督をつがず。島津家久の七男が家督を継承し、島津忠紀(ただのり)と名乗る。そして、島津久信も島津家久と面会後に急死。暗殺も疑われる。
島津久治は島津忠紀(島津家久の七男)の子で、於辰とは従兄妹の関係となる。血統については藩主家が垂水家を乗っ取っている。垂水家は分家の中でもっとも家格の高い「御一門」の一つとされる。
三女/於西(加治木家島津久薫室)
寛永19年(1642年)3月25日生まれ。母は黒田頼清の娘。元禄6年(1693年)11月1日没。享年52。法名は「桂岩清香庵主」。
大隅国加治木(鹿児島県姶良市加治木)を領する島津久薫(ひさただ)の正室。加治木島津家は島津家久三男の島津忠朗(ただあき)に始まる。加治木家は「御一門」の一つとされる。島津久薫は島津忠朗の子で、加治木家の2代目。於西とは従兄妹どうし。
次男/北郷久定
正保元年12月22日(1645年1月)生まれ。母は松澤八右衛門の娘。幼名は「虎千代丸」。初名は「久統」。北郷家の家督をついで北郷久定(ほんごうひささだ)と名乗る。通称は「文作」「次郎左衛門」。寛文2年(1662年)7月5日没。享年19。法名は「松月院天心法高居士」。
北郷氏は島津氏の一族で、島津忠宗(だだむね、島津氏4代当主)六男の島津資忠(すけただ)を祖とする。14世紀より日向国庄内(宮崎県都城市など)を領してきた。名乗りは庄内のうちの北郷(都城市山田町のあたり)に由来する。16世紀には北郷時久(ときひさ)が島津貴久・島津義久に協力し、その勢力拡大に貢献した。17世紀に入って北郷家に後嗣がなく、島津家久の四男が家督をつく。北郷久直(ほんごうひさなお)と名乗る。北郷久直は実兄の島津光久をよく支え、信頼も厚かった。
北郷久直は25歳で早世。後嗣となる男子がなく、島津光久の次男(北郷久定)が家督をつぐ。なお、北郷久定は北郷久直の長女を正室としている。
三男/島津忠長(北郷氏、都城家)
正保2年(1645年)6月3日生まれ。母は家女房で、系図には「江戸腹」とも。幼名は「幸寿丸」。通称は「摂津介」「外記」。寛文10年(1670年)11月10日没。享年26。法名は「千江院雪巌玄霜大居士」。
当初は喜入家の養子に入っていた。兄の北郷久定が早世したたため、北郷家をつぐことになった。そして島津光久の命令で家号を「北郷」から「島津」に復す。島津忠長と名乗った。読みは「ただなが」か? これ以降、北郷氏は「都城島津家」と呼ばれる。また、北郷久定の正室(北郷久直の娘)は島津忠長と再婚させている。
四女
名前は不明。正保4年(1647年)10月13日生まれ。母は比志島国隆の娘。承応2年(1653年)5月7日没。享年7。
四男/久四郎
慶安元年(1648年)6月18日生まれ。母は萩原与右衛門の娘。慶安3年(1650年)3月没。享年3。
五男/亀徳丸
慶安2年(1649年)6月5日生まれ。母は石原佐渡の娘。没年不明。夭折。
六男/島津久岑(佐志家)
名の読みは「ひさみね」か。慶安3年(1650年)8月9日生まれ。母は救仁郷頼重の娘。幼名は「虎松丸」。通称は「又六」。寛文8年12月12日(1669年1月)没。享年19。法名は「青松院雪岑操白居士」。
薩摩国佐志(鹿児島県薩摩郡さつま町広瀬のあたり)の佐志島津家の家督をつぐ。島津久近の後嗣となる。佐志家は系図では島津義弘五男の島津忠清を祖とする。実質的には島津義弘次女(「御下」と呼ばれた)の遺領を子の島津久近が相続して起こった家である。宗家準三男家として遇された。
七男/島津久逵(知覧家)
名の読みは「ひさみち」か。また。「島津久達」と記す資料もある。慶安4年(1651年)10月15日生まれ。母は家女房。幼名は「虎三郎」。通称は「市右衛門」「内記」「備後」「豊前」「備前」。享保4年(1719年)8月20日没。享年69。法名は「瑞祥院殿昭麟一角大居士」。
寛文元年(1661年)に幕府旗本の伊勢貞衡の養子となる。同年9月に江戸に入り、「伊勢貞朝」と名乗る。幕府に出仕する。寛文11年(1671年)に伊勢貞衡に実子が生まれ、伊勢家の後継を辞退した。
寛文12年(1672年)、佐多久利(さたひさとし)の養子となる。「佐多久逵」と名乗る。
佐多氏は島津忠宗(島津氏4代当主)三男の島津忠光を祖とする。名乗りは最初に拝領した大隅国佐多(鹿児島県肝属郡南大隅町佐多)に由来。のちに、薩摩国知覧(鹿児島県南九州市知覧)を領するようになる。
佐多氏は比較的早くから島津忠良・島津貴久に協力し、戦国島津氏の勢力拡大に貢献した。婚姻関係も代々重ねていて、島津氏藩主家の血がかなり入っている。
佐多久利は婿養子で、佐多氏の嫡女を正室とする。肝付兼屋(きもつきかねいえ)の三男で、母は島津家久の九女。佐多久逵とは従兄弟の間柄。
佐多久逵は、島津光久・島津綱貴・島津吉貴の三代に重用され、城代と家老も任された。正徳元年(1711年)には島津吉貴より「島津」家号を許され、「島津久逵」と名乗るようになった。これ以降は「知覧島津家」と呼ばれる。
八男/末川久侶
名前も読みは「ひさとも」か。明暦元年(1655年)6月23日生まれ。母は津留筑右衛門正将の娘。幼名は「虎助」。通称は「権八」「権兵衛」「壱岐」。元禄10年9月28日没。享年43。法名は「大勝院悟山悦心大居士」。
末川忠清(すえかわただきよ)の後嗣となる。当初は弟の島津忠顕(島津忠智)が末川家に入っていた。忠顕が北郷家に養子入りすることのなり、その兄が代わりに新城家に入った。
末川氏は垂水島津家の次男家。島津義久次女の遺領の大隅国新城(鹿児島県垂水市新城)を孫の島津久章(ひさあきら)が継承し、新城島津家がたてられた。その後、島津久章が罪に問われて薩摩国谷山の清泉寺(鹿児島市下福元町)で討たれ、新城家はなくなった。その後、島津久章の子の島津忠清を当主として新城家を再興。このときに家号を「末川」としている。
五女/於虎(日置家島津久竹室)
明暦元年(1655年)8月9日生まれ。母は新納忠頼の娘。天和2年12月12日(1682年1月)没。享年28。法名は「覺雲貞照」。
日置家の島津久竹の正室。日置家は島津貴久三男の島津歳久から始まる家系で、薩摩国日置(鹿児島県日置市日吉町日置)を領する。島津久竹の父は島津忠朝といい、島津家久の十二男が養子入りしたもの。従兄妹どうしの婚姻となった。
九男/鎌田正長
明暦2年(1656年)4月19日生まれ。母は家女房。幼名は「松千代」。通称は「又七郎」「出雲」。天和3年(1682年)4月16日没。享年28。法名は「仁雄院殿虎岑英斑大居士」。
鎌田正勝(かまだまさかつ)の婿養子となり、鎌田正長と名乗る。読みは「まさなが」あるいは「まさたけ」か。
なお、鎌田正勝は島津家久の十男で、こちらも鎌田氏の婿養子であった。島津光久の家老も務めている。
鎌田氏は島津氏初代の島津忠久からの家臣。12世紀末頃に鎌田政佐が薩摩国に入ったとされる。もともとは遠江国(静岡県)にあった氏族で、河内源氏の郎党だった。藤原姓を称する首藤氏の一族だが、もともとは尾張氏の一族の守部氏であったという。
15世紀に鎌田政年(まさとし)が伊作久逸(いざくひさやす)の家老として活躍。戦国島津氏にとっては伊作氏時代からの家臣である。16世紀には島津政年(前述の人物とは同名の別人)が「看経所の四名臣」(島津家の四天王みたいなもの)の一人に数えられたり、鎌田政近(まさちか)が島津家久の「忠義の老臣五人」のに数えられたりもしている。
六女/於亀(入来院重治室)
明暦3年(1657年)4月19日生まれ。母は新納忠頼の娘。享保16年(1731年)9月23日没。享年75。法名は「梅峯院殿即證鉄心大姉」。
薩摩国入来院(鹿児島県薩摩川内市入来)を領する入来院重治(いりきいんしげはる)の正室。
入来院氏は渋谷氏の一族。13世紀に渋谷重国が薩摩国に所領を得て次男家から六男家を任地に送り込んだ。そのうちの五男の曽司定心(渋谷定心)が入来院に入ったのが始まり。入来院氏は南北朝争乱期より島津氏と争うことが多かった。戦国時代には島津貴久といったん手を組むも、のちに敵対した。その後、島津氏に従属する。
入来院重聡の娘は島津貴久の継室で、島津義久・島津義弘・島津歳久の母でもある。また、入来院氏嫡流は血がとだえて、島津氏から養子が入っている。血筋は島津氏にかわっていて、入来院氏は一門のような扱いとなっている。
入来院重治の母は島津家久の島津家久の十三女でもある。島津光久の六女とは従兄妹どうしの婚姻だ。
十男/島津忠智(都城家)
明暦3年(1657年)6月5日生まれ。母は玉利重親の娘。幼名は「幸寿丸」。通称は「権十郎」「市右衛門」「筑後」。入道名は「香雲」。享保12年(1727年)閏1月28日没。享年71。法名は「瑞宝院殿義雲玄道大居士」。
当初の名は「島津忠顕」。垂水家次男家の末川忠清の後嗣となっていた。寛文11年(1671年)に都城島津家へ。兄の島津忠長が後嗣なく早世したので、こちらの家督をつぐことになる。「忠智(ただとも)」と名乗る。のちに「久理(ひさみち)」。正室は入来院重頼の娘。
十一男/喜入久亮
名前の読みは「きいれひさすけ」か。万治元年10月14日(1658年)生まれ。母は家女房、三男の島津忠長と同腹とも。幼名は「虎千代」。通称は「求馬」「右衛門」「又兵衛」「安房」。初名は「忠辰」。享保7年(1722年)11月15日没。享年66。法名は「知覚院殿天與道運大居士」。
薩摩国鹿籠(かご、鹿児島県枕崎市)の私領主の喜入氏の家督をつぎ、喜入久亮(きいれひさすけ)と名乗る。当初は喜入忠長(島津久長)が家督をついでいたが、北郷家に入ることになり、その同母弟が後嗣となった。
喜入氏は島津忠国(島津氏9代当主)七男の島津忠弘を祖とする。薩摩国喜入(鹿児島市喜入)を与えられた。摂津守を称したことから摂州家と呼ばれた。島津貴久には比較的早くから協力している、島津忠俊や喜入季久をはじめ、一族には重臣として活躍した者も多い。なお、戦国時代に家号を「喜入」に改めた。また、太閤検地のあとの所領替えで鹿籠に移っている。
喜入久亮は薩摩藩の重職を任される。貞享3年(1886年)より、島津綱貴の家老を務めた。
十ニ男/島津久明(大蔵家)
万治2年(1659年)6月5日生まれ。母は家女房。幼名は「虎松丸」。初名は「久治」(「久始」とする資料もあり)。通称は「虎之丞」「式部」「大蔵」。正室は禰寝清雄の長女。享保2年(1717年)4月5日没。享年59。法名は「寛雄院殿法身玄空大居士」。
島津綱貴のもとで重用された。元禄14年(1701年)から家老を任され、同年には分家をたて、準次男家とされた。「大蔵家」と呼ばれる。
七女/万鶴(北郷忠昭室)
万治4年(1661年)3月9日生まれ。母は家女房。享保19年(1734年)7月22日没。享年74。法名は「節貞元岑大姉」。
薩摩国平佐(鹿児島県薩摩川内市の平佐)の私領主の北郷忠昭の正室。北郷忠昭は重職を任され、家老にも任じられる。この北郷氏は分家で、「平佐北郷氏」と呼ばれている。北郷時久(ときひさ)三男の北郷三久から続く家系だ。
八女/千亀(伊勢貞顕室)
寛文元年7月8日生まれ。母は家女房。享保7年6月8日没。享年62。法名は「齢山自泉大姉」。
伊勢貞顕の正室。伊勢貞顕は伊勢貞昭(島津家久の十四男)の後嗣だ。伊勢家は島津光久の正室の実家でもある。
九女/於長(宮之城家島津久洪室)
寛文元年8月27日生まれ。母は有馬純実の娘。元文4年9月29日没。享年。法名は「湖心宗鏡大姉」。
薩摩国宮之城(鹿児島県薩摩郡さつま町の宮之城)の私領主の島津久洪の正室。島津久洪の母は島津家久の十六女で、従兄妹どうしの婚姻。
宮之城家は島津忠良三男の島津尚久(なおひさ)より続く家系。その子の島津忠長、孫の島津久元は家老も務めた。島津久洪も島津綱貴の家老を任されている。
十三男/島津久當(佐志家)
名前の読みは「ひさまさ」か?
寛文元年(1661年)10月20日生まれ。母は松元佐次衛門の娘。養母は救仁郷頼重の娘か。幼名は「松千代」。通称は「権七」「伊賀」「縫殿」「勘解由」「将監」。初名は「久寛」。享保14年(1729年)8月17日没。享年69。法名「廓前道性大居士」。
佐志家に入っていた兄の島津久岑が早世し、その後嗣となる。大隅国の国府(鹿児島県霧島市の国分)、薩摩国の伊集院(鹿児島県日置市伊集院)・大口(鹿児島県伊佐市大口)などの地頭も歴任する。また、島津綱貴(島津光久の嫡孫)の代には家老を務めた。
十女/虎鶴(内記家島津久文室)
寛文3年12月3日(1664年1月)生まれ。母は新納忠頼の娘。天和2年(1682年)6月23日没。享年19。法名は「心海澄明大姉」。
内記家の島津久文に嫁ぐ。内記家は宮之城島津家の次男家にあたる。
十一女
寛文4年(1664年)3月6日生まれ。同年6月13日没。『略御系図』には母を「平松中納言時庸妹」としている。たぶん、継室の平松時庸の養女のことか。
十四男/外記
寛文5年(1665年)3月28日生まれ。母は家女房。幼名は「虎三郎」。通称は「外記」で、名は「島津久次」か。天和2年(1682年)6月23日没。享年18。法名は「心参全無」
十五男/島津久記(頼母家)
名前の読みはわからず。寛文5年(1665年)11月3日生まれ。母は濱田純昌の娘。幼名は「千代徳」。通称は「源七」「頼母」。享保18年(1733年)4月7日没。享年69。法名は「英安全雄大居士」。
元禄14年(1701年)に分家を立てることを命じられ、島津家の準四男家とされた。島津久記の通称から「頼母家」と呼ばれる。
十六男/桂久祐
桂久祐(かつらひさすけ)は、桂久澄の娘婿としてその家督をつぐ。
寛文5年(1665年)11月8日生まれ。母は塩田与左衛門国実の娘。幼名は「長千代」。通称は「又二郎」「宇右衛門」「織部」。正徳元年6月20日没。享年47。法名は「微笑院心開一華大居士」。
桂氏は島津忠国(島津氏9代当主)四男の島津勝久(かつひさ)を祖とする。当主が常陸介を称したことかた常州家と呼ばれた。島津貴久・島津義久に従って活躍。島津貴久の命令で家号を改めた。日向国月野(つきの、鹿児島県曽於市大隅町月野)を領していたことから、「月」にちなんで「桂」とした。
十二女/於鶴(織田信盛室)
寛文6年(1666年)8月8日生まれ。母は岩山直朝の妹(岩山光期の娘)。養母は平松時庸の養女(交野時貞の娘)。正徳元年7月20日没。享年46。法名は「智性院殿圓月寿相大姉」。
上野国小幡藩(群馬県甘楽郡甘楽町小幡)の織田家の世子である織田信盛(おだのぶもり)に嫁ぐ。こちらは織田信長次男の織田信雄から続く家系である。大名家との縁組でもあり、島津光久の継室の養女としたのだろう。
十三女/千代鶴(桂忠厚室)
寛文6年(1666年)8月22日生まれ。母は家女房。桂氏分家の桂忠厚(かつらただあつ)に嫁ぐが早世する。正徳元年(1711年)7月20日没。享年15。法名は「心光清月大姉」。
早世だったが、桂家で一女を生んでいる。島津綱貴の娘の亀姫が近衛家久に嫁ぐ際に、この桂家の娘がお供をしている。
十七男/畠山基明
寛文6年12月8日(1667年1月)生まれ。母は味方正信の娘。幼名は「松之助」。初名は「義扶」。通称は「淡路」「式部」。延享3年(1746年)9月12日没。享年84。法名は「観照院殿祖印性海大居士」。
阿多忠栄の養子となる。元禄14年(1701年)は家号を「畠山」に復す。畠山基明(はたけやまもとあき)と名乗った。
この阿多氏は島津義弘の家老の長寿院盛淳(ちょうじゅいんせいじゅん、阿多盛淳)から続く家系だ。長寿院盛淳(阿多盛淳)の父は畠山頼国という薩摩国に移住してきた。この人物は足利氏支族の畠山氏庶流を称する。
十四女/千代松(種子島久基先室)
寛文7年(1667年)11月22日生まれ。母は家女房。貞享4年(1687年)9月12日没。享年21.法名は「妙遠日成大姉」。
種子島久基(たねがしまひさもと)の正室。種子島氏は中世より種子島の島主。戦国時代は島津貴久・島津義久に協力。薩摩藩においても家老を出す。種子島久基も藩家老を務めた。
十五女/鶴千代(頴娃久明室)
寛文8年(1668年)10月23日生まれ。母は家女房。頴娃久明(えいひさあき)に嫁ぐも離別。享保18年(1733年)8月6日没。享年67。法名は「明室慈宣大姉」。
頴娃氏は伴姓で、肝付(きもつき)氏の一族。薩摩国頴娃(鹿児島県南九州市頴娃など)を領したことが名乗りの由来。15世紀初めに島津久豊が肝付兼元(かねもと)二男の肝付兼政(かねまさ)を養子として迎え入れ、「島津忠豊」を名乗らせて三男家扱いとした。その後、島津忠豊は「島津」名乗りを返上し、伴姓に復して「頴娃」を名乗りとするようになった。肝付一族ながら、島津氏の臣下としての色合いが濃い。
十六女/安千代(肝付兼柄室)
寛文9年(1669年)9月10日生まれ。母は玉利重親の娘。元禄9年(1696年)2月29日没。享年31。法名は「光雲了瑞大姉」
薩摩国喜入(きいれ、鹿児島市喜入)の私領主の肝付兼柄(きもつきかねえだ)の正室。この家系は肝付氏の三男家で、大隅半島に勢力を持っていた嫡流から出奔して島津氏に仕えた。戦国時代には大隅国加治木(鹿児島県姶良市加治木)を領して「加治木肝付氏」とも呼ばれた。のちに喜入へ移封となり、江戸時代には「喜入肝付氏」と呼ばれたりする。藩家老を多く出す家で、肝付兼柄も家老を務めている。
十七女/袈裟千代(種子島久基後室)
寛文10年(1670年)3月2日生まれ。母は津田氏の娘。養母は和泉忠参の姉(和泉忠親の娘)。延享5年(1748年)5月1日没。享年79。法名は「自照院殿蓮友日耀大姉」。
種子島久基に嫁いでいた姉(千代松)が早世したあと、後室として入る。妹のほうは長生きだった。
十八男/入来院重矩
寛文12年(1672年)2月28日生まれ。母は家女房。幼名は「虎助」。初名は「久重」。通称は「又一左衛門」「主馬」。享保20年(1735年)3月25日没。享年64。法名は「海濤心印大居士」。
入来院氏には姉(島津光久六女)がとつぎ、さらに兄(島津光久十男、都城家の島津忠智)の次男が養子に入って入来院規重と名乗った。さらに入その後嗣として入ったのが入来院重矩だった。甥の養子ということになる。
十九男/島津久房(岩崎家)
寛文13年(1673年)4月10日生まれ。母は濱田純昌の娘。幼名は「千代徳」。通称は「主馬」「求馬」。享保17年(1732年)11月1日没。享年60。法名は「隆徳院山容心海大居士」。
分家にたてられて、準五男家とされる。島津久房の屋敷が鹿児島城の岩崎口にあったことから、「岩崎島津家」とも呼ばれる。
十八女/松鶴(市成家島津久輔室)
延宝元年(1673年)11月19日生まれ。母は塩田氏(塩田国実か)の娘。延享元年(1744年)4月1日没。享年72。法名は「良昌院殿寿真元宝大姉」。
大隅国市成(いちなり、鹿児島県鹿屋市輝北町市成)の私領主の島津久輔(ひさすけ)に嫁ぐも、のちに離縁。
市成島津家はもとは敷根(しきね)氏。源姓の土岐氏の末裔を称する。13世紀頃に大隅国敷根(鹿児島県霧島市国分敷根)に土着したとされる。敷根氏は島津貴久・島津義久に従って戦う。のちに敷根から市成へ移封となった。当主が朝鮮で陣没し、敷根氏には島津氏から養子が入る。寛永20年(1643年)に敷根氏は「島津」の名乗りを許されている。
十九女/亀松(助之丞家島津忠伴室)
延宝2年(1674年)2月17日生まれ。母は家女房。元禄7年(1694年)9月26日没。享年21。法名は「自光院殿覺峯了智大姉」。
助之丞家の島津忠伴に嫁ぐ。助之丞家は島津家久五男の島津忠広に始まる家で、準三男家とされている。
二十男/末川久雄
延宝8年(1680年)9月2日生まれ。母は家女房。初名は「久茂」。通称は「中久倫」「源七」「権七」「備中」「監物」「市太夫」。入道名は「久鼇」。延享4年(1747年)10月2日没。享年68。法名は「壺天久鼇大居士」。
末川久侶(島津光久の八男)に後嗣がなく、その養子となる。実兄のあとをつぐ。末川久雄は末川家(新城島津家)の4代目にあたる。
二十女/亀千代
延宝8年12月12日(1681年2月)生まれ。母は家女房。天和2年(1682年)没。3歳で夭折。
二十一女/徳鶴(北郷久嘉室)
天和3年(1683年)10月16日生まれ。母は家女房。享保10年(1725年)11月6日没。享年43。法名は「観照慧月大姉」。
平佐の北郷久嘉の後室となる。北郷久嘉は相良氏の出身で、婿養子であった。北郷忠昭の娘(母は島津光久の七女)を妻とした。この正室がなくなったあと、後室として島津光久の二十一女が入った。
二十一男/税所久皎
貞享4年(1687年)11月14日生まれ。母は税所市兵衛の娘。通称は「権之助」「又之丞」「左門」。寛保元年(1741年)8月28日没。享年55。法名は「獨心圓満大居士」
母方の税所(さいしょ)氏を名乗った。名前の読みはわからない。
<参考資料>
『略御系図』
天保13年(1842年)に島津忠教(島津久光)自筆
玉里文庫/鹿児島大学デジタルコレクションより
『島津氏正統系図』
編/尚古集成館 発行/島津家資料刊行会 1985年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜 一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1989年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1990年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
鹿児島県史料集6『諸家大慨・別本諸家大慨・職掌紀原・御家譜』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1966年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『薩摩藩家老の系譜』
著/林匡 発行:鹿児島県 2015年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 伊地知季安史料集三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 2001年
鹿児島県史料『鎌田正純日記一』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1989年
ほか