天正3年(1575年)5月、島津家久(しまづいえひさ)は里村紹巴(さとむらじょうは)とともに近江国を訪れる。坂本城(滋賀県大津市坂本)で明智光秀の歓待を受けたあと、名所見物をしながら京へ戻っていく。
帰京後は連歌興行あり。前関白の近衛前久(このえさきひさ)の使者もやってくる。『中務大輔家久公御上京日記』より5月17日~5月23日を。
- 天正3年5月17日/近江の名所
- 天正3年5月18日/小笠原殿のところへ
- 天正3年5月19日/連歌
- 天正3年5月20日/酒樽たくさん
- 天正3年5月21日/また連歌
- 天正3年5月22日/近衛様の御使い
- 天正3年5月23日/大覚寺殿と飛鳥井殿と
日記の日付は旧暦。

前回の記事はこちら。明智光秀の城に招かれた。
『中務大輔家久公御上京日記』についてはこちらの記事にて。
史料は東京大学史料編纂所の翻刻より引用。
『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)
島津家久は島津貴久(たかひさ)の四男である。兄には島津義久(よしひさ)、島津義弘(よしひろ)、島津歳久(としひさ)がいる。人物像についてはこちらの記事にて。
天正3年5月17日/近江の名所
この日は近江国の名所を見てまわり、京へと戻っていく。だいぶ長いので、分割しつつ説明していく。
十七日、石山の観世音へ参詣候へハ、源氏のまとて紫式部源氏を書たてし所有、其上ニ式部の石塔有、儅、寺に帰り石山の御えんきの繪像拜見、其より紹巴、此寺徒にやハとて源氏桐つほの巻を読候、
「石山の観世音」とは石光山石山寺(滋賀県大津市石山寺)のこと。こちらへ参詣する。「源氏も間」を見る。紫式部が『源氏物語』を書き始めたのがここ、と伝わっている。紫式部の石塔もあった。
そして「石山の御縁起の絵像」を見せてもらう。これは『石山縁起絵巻』と呼ばれるもので、国の重要文化財にも指定されている。当時は五巻までがあった。一巻から三巻は正中年間(1324年~1326年)に作成されたもので、石山寺座主の杲守の詞書(ことばがき)、絵は高階隆兼の手によると推測されている。四巻は室町時代の成立で、詞書は三条西実隆。絵は土佐派の人物と推測され、土佐光信という説もあり。五巻は鎌倉時代後期の作で、詞書は冷泉為重。絵師は不明だが、粟田口隆光との説もあり。
そのあと、里村紹巴が『源氏物語』の「桐壺の巻」を読み聞かせてくれた。
儅、帰京のおり節ニ、風品(風呂)と候へ共、急打出るに、坊中衆すゝを中途まて持せられ、酒ゑん頻ニ侍り、儅、本国尾張衆山ち源介といへる人、前の同會にあハれ候、其夜ハ帰り、舟にて亦迎に来られ候、是も舟中ニすゝを持せ候、さて水上のミわたしに笠取山遙にみえ侍り、亦行て兼平の原(腹)切し処有、儅、木曾殿臥所田中ニ有、鐙塚とて有、又ともへのしるしの松有、
帰京することになり、風呂に入り、急いで出立。しかし、寺の者が酒を持って追いかけてきて酒宴になった。尾張衆の「山ち源介」という人もいた。尾張衆とあるので織田家の家臣か。この人がいったん帰って船で迎えにきてくれた。船中にも酒あり。酒宴。
水上からは笠取山(頂上は京都府宇治市西笠取)が遠くに見えた。「兼平の腹切し処」も見る。寿永3年(1184年)に今井兼平が切腹して果てたところだ。今井兼平は木曾義仲(源義仲)の側近で、主君と死をともにした。そして、木曾義仲が深田にはまって討たれた場所もあり。「鐙塚(あぶみづか)」「ともへのしるしの松(巴のしるしの松?)」も木曾義仲に関係したものだろう。
さて打出の濱、其より大津に舟つけ、三井寺一見、さて僧正、紹巴の迎ニさし出候て、寺のまへの御堂にて酒有、さて名に響たる鐘、三井の水に心をすまし立帰に、をのゝ小町の石塔あり、亦小町の腰かけの石とて有、やかて関寺の跡有、さて相坂のせきを越、関の清水を結ひあけ、手を冷しなとし侍るに、王鐘の地蔵とて有、亦行て蝉丸ハう屋の跡有、其次ニ走井の水、
しばらく行くと打出浜。ここも木曾義仲が伝承の残る場所だ。歌枕の地でもある。紫式部のゆかりの地でもある。
大津に舟をつけて三井寺(長等山園城寺、滋賀県大津市園城寺町)を見学。僧正が里村紹巴の迎えに出てきて、御堂で酒宴。三井寺の鐘は音色が美しいことで知られる。島津家久はこちらについても記す。小野小町の石塔や「小町の腰掛石」もあった。
そして関寺跡(大津市逢坂のあたり)。この近くには小野小町の庵があったとも伝わる。逢坂の関を越えて、関の清水で手を冷やした。「王鐘の地蔵」はよくわからず。そして蝉丸(せみまる)の住んだ場所。蝉丸は歌人としても知られる。関蝉丸神社のあたりか。さらに行くと走井(はしりい)の湧水。
其より行てひやうしくしとて関有、関東の順札衆せき留られ、物うけなるを、拙者校量としてとをし候、さて紹巴、の方より送り馬二疋引せ、拙者のれと候へ共、たゝとてかちより行て、音に聞し音羽山、をとはの里、さて行て四宮川原、其邊山科也、さて天智天皇のみさゝき、其次に花山の僧正の舘有、儅、ハうくハん義経のけかけの水とて有、其次松阪、あハた山、南祥寺、見帰り佛とて有、亦ぬへ射たる所、儅、しゅんくハんの居ところの跡、次にしもかハら、さて帰京候、
関所にて。「ひょうしくし」は何かの公事かと思われる。通行料を取っているのか、あるいは通過者の取り調べだろうか。関東からの巡礼者が通れずに困っていたので、拙者(島津家久)が校量して(推し量って)通してあげた、と。何をしたのだろう?
里村紹巴の迎えとして「智音」のほうから馬二頭。島津家久も乗るよううながされたが、遠慮して歩いた。「智音」は知恩院(京都市東山区林下町)のことか。関を越えて都のほうに知恩院はある。「音に聞し音羽山」の音羽の里(京都市山科区の音羽のあたり)へ。四宮川原(山科区の四ノ宮のあたり)を抜けて、そこは山科、と。天智天皇陵(御廟野古墳、山科区御陵上御廟野町)があるところを通り、花山僧正の館(山科区の花山のあたり)がある。花山僧正は遍照の名で知られ、六歌仙の一人だ。
判官義経の「けかけの水」あり。源義経にゆかりのある水かな。蹴上(けあげ)という地名があるが、そのあたりだろうか。そして松阪を抜け、「南祥寺」へ。これは「南禅寺」の誤記らしい。瑞龍山太平興国南禅禅寺(京都市左京区南禅寺福地町)があり、見返り仏もあり。見返り仏は永観堂(聖衆来迎山禅林寺、左京区永観堂町)の本尊だ。
そして「鵺射たるところ」(鵺退治の伝承があるところか)を過ぎ、俊寛の居住地跡があり。示現山満願寺(京都市左京区岡崎法勝寺町)の境内に「俊寛僧都故居碑」がある。下川原(左京区下鴨下川原町)を抜けて帰京した。
天正3年5月18日/小笠原殿のところへ
十八日、小笠原殿へまいり候、
小笠原殿を訪問。小笠原氏は幕府に仕え、武家の有職故実を伝える家柄。何のために会いに行ったのだろう?
天正3年5月19日/連歌
十九日、昌叱にて連歌あり、
里村昌叱(里村紹巴の弟子)の連歌興行があった。
天正3年5月20日/酒樽たくさん
廿日、黒田六郎左衛門樽持参候、亦下京衆清水龍清樽、其後堺木屋より樽四ツ、種々取合、則紹巴・昌叱寄合候、
黒田六郎左衛門が酒樽を持ってくる。下京衆の清水龍清も酒樽を持ってくる。また堺木屋からも樽が四つ。里村紹巴・里村昌叱らと酒盛り。
下京衆清水龍清や堺木屋は商人だろうか。黒田六郎左衛門は何者かわからないが、こちらも商人かもしれない。
酒樽がたくさん寄せられたのは何だろう。連歌会に関連してのものなのか?
天正3年5月21日/また連歌
廿一日、紹巴より會尺の連歌あり、
里村紹巴から「会釈の連歌」あり。里村紹巴が付け句した、ということか。
天正3年5月22日/近衛様の御使い
廿二日、小笠原殿へ参、帰候へハ、丹波より遠路ニ候へ共、新藤左衛門大輔殿、近衛様よりの御使として同御尊筆之一冊・御書状頂載申、其より一順仕処ニ、長野下総守御酒紹巴へ進し候、
また、小笠原殿のところへ行く。何をしにいったのかは書いていない。もしかしたら政治向きの用事なのかも? ……という感じもするが。新藤左衛門大輔(進藤左衛門大輔)殿が近衛様の使いとしてやってきた。近衛様とは前関白の近衛前久(このえさきひさ)のこと。近衛前久の直筆の本を一冊と、書状を受け取った。
近衛家は島津氏の主家筋にあたる。島津氏祖の惟宗忠久(島津忠久)は近衛家に仕えていた。島津氏が九州に土着したあとも主従関係は続いている。「近衛様」「御尊筆」「御書状頂載申」と言葉遣いも特別な感じがする。
近衛前久は関白を解任されたあと、諸国をまわっていた。そして織田信長に許されて天正3年(1575年)に京へ戻ってきたばかりであった。なお、近衛前久は天正4年3月に薩摩国鹿児島にも来る。織田信長の意を受けて、島津氏と敵対勢力との和議を図ろうとした。この5月22日の書状も、織田信長が関わるものであったのかもしれない。
天正3年5月23日/大覚寺殿と飛鳥井殿と
廿三日、大覚寺殿・飛鳥井殿申請、連歌興行仕候、新藤殿御連座、さて連歌終亂酒ニ成、大覚寺殿・飛鳥井殿の御盃度々御しやく、御さかな被下候事其数をしらす、新藤殿・紹巴なとおの/\うたハれ候、
大覚寺殿と飛鳥井殿の主催で連歌興行。新藤殿(進藤左衛門大輔)も参加した。連歌のあとは「乱酒」。盛大な酒宴で飲み散らかしたという感じか。大覚寺殿・飛鳥井殿の盃に何度もお酌をした。「御さかな被下候事其数をしらす(料理の数がものすごく多い)」。新藤殿・里村紹巴らが謡っていた。
「飛鳥井殿」は飛鳥井雅春(あすかいまさはる)・飛鳥井雅敦(まさあつ)の父子のいずれかだろう。ともに和歌にすぐれ、蹴鞠の「飛鳥井流」を伝える家でもある。島津家とも親交がある。
「大覚寺殿」は先に書かれているので、飛鳥井殿よりも目上の人物だろう。大覚寺門跡の尊信(義性)の可能性がある。尊信は近衛稙家の子で、近衛前久の弟にあたる。
つづく。
<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録
鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年
『新訂増補 史籍集覧第26冊』より「大覚寺門跡次第」
編/史籍集覧刊行会 1967年
ほか