鹿児島市喜入町に「宮地(みやじ)」というところがある。地名は神社に由来するものだろう。この地には宮坂神社(みやさかじんじゃ)が鎮座する。
喜入季久が創建、肝付氏も崇敬
旧称は「正一位三百餘社大明神社」という。読みは、そのまま「さんびゃくよしゃ」でいいみたいだ。主祭神は天照大神(アマテラスオオミカミ)とされ、三百余社の天津神・国津神もあわせて祭るという。
弘治3年(1557年)に喜入摂津守季久が創建したと伝わる。そして、喜入の総鎮守とされた。
喜入季久(きいれすえひさ)は島津氏分家の摂州家(せっしゅうけ)の5代目にあたり、島津義久(しまづよしひさ)の家老も務めた。摂州家は薩摩国喜入や指宿などを領し、所領にちなんで「島津」から「喜入」に名乗りを変えている。
喜入氏については、こちらの記事にて。
『三国名勝図会』によると、鰐口には「文明五年癸巳二月吉日願主沙門源智敬白那賀卿大明神」とあったとのこと。弘治3年(1557年)の創建とされるが、文明5年(1473年)はだいぶ前のことである。那賀卿大明神の鰐口を持ってきて納めたのか、あるいは前身が那賀卿大明神だったのかもしれない。天正6年(1578年)に喜入季久の再建も棟札もあったという。
『三国名勝図会』についてはこちらの記事にて。
文禄4年(1595年)に豊臣秀吉の命令で、島津氏領内は大幅な所領替えが行われた。喜入氏は薩摩国鹿籠(かご、鹿児島県枕崎市)に移封となった。喜入へは大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)の肝付(きもつき)氏が移ってきた。この肝付氏は三男家で、戦国大名として知られる肝付氏の嫡流とは別物。15世紀より島津家に仕える家で、国家老にも任じられている。加治木を拠点としたことから「加治木肝付氏」とも呼ばれる。そして、喜入に移ったあとは「喜入肝付氏」と呼ばれるようになった。喜入肝付氏は幕末まで喜入を領し、薩摩藩の家老も出している。
喜入肝付氏についてはこちらの記事にて。
三百餘社大明神社は肝付氏からも大事にされた。享保21年(1736年)には「正一位」の神階を得ている。
宮司は浜島氏が務めた。浜島氏は肝付氏とともに加治木から移ってきたという。情報は『喜入町郷土誌』より。
慶応4年(1868年)に、「正一位三百餘社大明神社」から「宮坂神社」へ改称。明治5年(1872年)に「郷社」に列せられた。
参詣する
場所はJR喜入駅からそれほど遠くない。ただ、道がわかりにくく、だいぶ迷った。ようやくたどり着く。境内横には駐車場もあり。
境内は緑が多い。そこに鳥居の朱色が映える。


社殿は明治32年(1899年)に改築されたもの。

本殿の向かって右側に摂社の軍神社(ぐんじんじゃ)。武甕槌命(タケミカヅチノミコト)・経津主命(フツヌシノミコト)を祭る。

本殿の向かって左側には摂社の山祇神社(やまつみじんじゃ)と蛭子神社(えびすじんじゃ)。それぞれ大山祇神(オオヤマツミノカミ)・蛭子神(エビスノカミ)を祭る。


境内には「喜入町招魂社」もある。こちらの鳥居をくぐると社叢も広がっている。


主馬首一平安代の銘刀
境内には「刀工安代之碑」もある。

宮坂神社には5振りの刀が奉納されていたという。以下のとおり。
◆主馬首一平安代(しゅめのかみいちのひらやすよ)の作/享保8年(1723年)奉納
◆一平藤原安則の作/文化13年(1816年)奉納
◆中村清右衛門清房の作/享保16年(1731年)奉納
◆伊勢守藤原清方の作/寛延3年(1750年)奉納
◆無銘
このうち主馬首一平安代の刀は大正8年(1919年)に国宝に指定。主馬首一平安代(玉置一平安代)は、喜入生まれの刀工である。
5振りの刀は昭和20年(1945年)に進駐軍により接収された。その後は行方知れずに……。
<参考資料>
『喜入町郷土誌』
編/喜入町郷土誌編集委員会 発行/喜入町 2004年
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
ほか