鹿児島市下荒田に鎮座する荒田八幡宮(あらたはちまんぐう)。この境内にタノカンサァ(田の神像)が置かれている。
タノカンサァ(田の神像)は鹿児島県と宮崎県南部に大量に見られる。島津氏領内で広がった民間信仰である。田の守り神であり、子孫繁栄の神でもある。詳細はこちらの記事にて。
荒田八幡宮は和銅年間(8世紀初め)の創建とも伝わる。かつては鹿児島の総社であったとも。現在はかなり街中にある。すぐ横には鹿児島市電(路面電車)も通る幹線道路。交通量もすごく多い。そんな周囲の騒がしさが嘘のように、緑に覆われた境内は落ち着いた雰囲気である。
拝殿の向かって右側に小さな鳥居がある。その向こうにいろいろな神様が並ぶ。龍神・三宝荒神・地神・水神などとともにタノカンサァ(田の神像)もいる。
作られた年代は不明。だいぶ風化しているが、造形がよくできていることがうかがえる。右手にメシゲ(しゃもじ)、左手にお椀を持つ。頭にはシキ(米を蒸すときに使う道具)をかぶる。田の神舞(タノカンメ)を舞う人を模したものである。
小さなタノカンサァ(田の神像)がもう一体。こちらは最近のもの。スリコギとメシゲを持つ。
タノカンサァの横には恵比須様。こちらもなかなかの存在感である。
龍神像もあった。すごい躍動感だ。
『田の神鎮座由来紀』という立派な石碑があった。昭和32年(1957年)の建碑。けっこう詳しく書かれている。
碑文によると、このタノカンサァ(田の神像)はもともと大隅のほうにあったもの。「オットイ」の風習により鹿児島に持ってこられたという。
「オットイ」とは「盗む」という意味。豊作の地域のタノカンサァ(田の神像)を盗んできて(借りてきて)、自分たちの田に置くのである。オットられたタノカンサァ(田の神)は2年~3年ほどで、お礼の品をつけて元の集落に返還することになっている。ただ、荒田八幡宮のタノカンサァは、どういうわけか返されず。鹿児島にとどまったままに。
経緯はよくわからないが、タノカンサァは河野主一郎(こうのしゅいちろう)邸に祀られるようになった。河野邸は鹿児島市の高麗町にあったとのこと。
河野主一郎は、西郷隆盛の支持者であった。私学校の創設にも関わった。その後、明治10年(1877年)の西南戦争にも従軍。小隊長として部隊を率いた。城山籠城戦の際には西郷隆盛の助命嘆願の使者となるが、政府軍にそのまま捕まる。戦後は投獄された。明治14年(1881年)に恩赦により出獄。その後は、鹿児島で教育活動などに尽力した。のちに政府に出仕し、台北県宜蘭支庁長や青森県知事などを歴任した。
その後、河野邸は太平洋戦争の戦火(空襲か)で焼失する。邸宅跡は荒れたままで、がれきの下にタノカンサァも埋もれていたという。邸宅跡の一隅に住む夫人の夢枕にタノカンサァが現れて「吾はいま実にみじめなる姿になり、耐へしのび居れり、これをとり立てて祀れよ」と告げた。そこで、夫人は邸宅前に奉斎したのだという。そして昭和29年(1954年)に、河野家の承諾を得て荒田八幡宮の境内に祀られたそうだ。
なかなかに数奇な経歴を持つタノカンサァ(田の神像)であった。
タノカンサァはもう一体いる、拝殿の向かって左脇のほうにも。こちらはいい表情をしている。
<参考資料>
『鹿児島市史 第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1967年
『鹿児島市史 第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年
ほか