戦争になったら背後の山(上之山城、うえのやまじょう)にたてこもる。そんな想定で鹿児島城(かごしまじょう、鹿児島市城山町)は整備されている。のちに籠城は実行される。築城から約270年後のことだった。
本丸や二ノ丸については前編にて。鹿児島城の概要についてもこちらで。
西南戦争の最終決戦の地
明治10年(1877年)、鹿児島で不平士族が蜂起した。西南戦争(せいなんせんそう)である。「丁丑役(ていちゅうえき)」とも呼ばれる。
西郷隆盛は明治6年(1874年)に官を辞して鹿児島に帰る。そして、鹿児島城の出丸に私学校(しがっこう)を設立した。私学校では仕官の養成を行う。また、明治政府による急激な改革に対して不満を持つ士族たちを抑える狙いもあった。しかし、私学校が火種となってしまうのである。
明治10年1月29日、私学校の生徒が鹿児島の陸軍火薬庫を襲撃する。これをきっかけとして、大規模な反乱が勃発する。西郷隆盛は薩摩軍(反乱軍)の総大将に担ぎ上げられた。
薩摩軍は意気揚々と鹿児島を出発し、九州を北上する。一方で、明治政府の対応は速く、すぐに征討軍を起こり込んできた。薩摩軍は熊本城を攻めるが落とせず。熊本・宮崎・鹿児島を転戦するも敗戦が続く。戦況はどんどん悪くなっていった。8月15日、薩摩軍は和田越(宮崎県延岡市稲葉崎町)の戦いで敗れ、西郷隆盛は軍を解散する。投降するか討ち死にするかは、各自の判断に委ねられた。降伏しなかった約1000人は、西郷隆盛とともに鹿児島を目指した。
政府軍の網をかいくぐり、西郷隆盛と薩摩軍は9月1日に城山に入る。兵力はわずかに300余名だった。
政府軍は城山のまわりをがっちりと包囲。9月24日早朝に総攻撃をかける。薩摩軍は壊滅し、西郷隆盛も散る。
これが日本の歴史における最後の内戦となった。城山総攻撃は最後の攻城戦でもある。
城山を登る
鹿児島城から城山へは遊歩道が整備されている。入口は「かごしま近代文学館・かごしまメルヘン館」の裏手にある。探勝園(たんしょうえん、二ノ丸庭園跡)の脇の道を登っていてもたどり着ける。また、鹿児島城北側の薩摩義士碑の脇からも遊歩道に入れる。
遊歩道はかなりきれいに整備されている。山城の痕跡はあまり残っていないが、それっぽいところもところどころにあったりする。展望台までは20分ほど。山頂へは車でも行ける。
山頂の駐車場の近くには「ドン広場」と呼ばれる公園がある。かつて空砲で正午の時報を行っていたことから、こんな名前がついているそうだ。ここは上之山城の曲輪跡である。けっこうな広さがあるので、主郭だろうか。高く盛られた土塁もある。
上之山城は、もともとは上山(うえやま)氏が築いたものだ。14世紀の南北朝争乱期に島津貞久は鹿児島を奪う。そのときに、上之山城も島津氏のものになったのだと思われる。
【関連記事】南九州の南北朝争乱、『島津国史』より(3) 懐良親王が薩摩へ
また、天文8年(1539年)に島津貴久(しまづたかひさ、15代当主)が谷山を攻めるが、上之山に本陣を敷いている。
戦国時代の南九州、激動の16世紀(4)島津忠良・島津貴久の南薩摩平定
17世紀初めに島津忠恒(しまづただつね、島津家久、18代当主、初代藩主)が鹿児島城を整備した際、山城にも居館が作られた。日置島津家(ひおきしまづけ、島津歳久を祖とする分家)の島津常久(つねひさ、歳久の孫)が城代を務めた。慶長19年(1614年)に島津常久は上之山城で亡くなり、その後、一国一城令が出たために建物はほとんどが取り壊された。
さらに奥へと進んで登ると、古びた記念碑がある。「明治十年戦役薩軍本営跡」の石碑だ。ドン広場(上之山城跡)は西郷隆盛が本陣を構えた場所でもあるのだ。
激戦の爪痕
鹿児島城跡には、西南戦争の激戦がはっきりと刻まれている。私学校のあった出丸跡の石垣に弾痕が多数。また、御楼門をくぐって大手門を入ると、ここの石垣にも弾痕が確認できる。よく見ると潰れた弾丸もめり込んでいる。
関連記事。夏の鹿児島城。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『鹿児島縣史 第3巻』
編/鹿児島県 1941年
『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年
『鹿児島市史第3巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1971年
『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年
『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年
『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)
ほか