ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

神社・寺院

佐多岬と御崎神社、大隅半島の先っぽを『三国名勝図会』より

すごく遠い。行くにはけっこうな覚悟が必要だ。ここは離島を除く日本列島の最南端。 佐多岬は鹿児島県肝属郡南大隅町にある。車を走らせて南下していくうちに、植物の感じが亜熱帯性のものにかわる。陸続きなのに、見える景色は日本じゃないみたいなのだ。 …

日新寺跡(竹田神社)・常潤院跡にいってみた、島津忠良ゆかりの地

戦国島津氏は島津忠良(しまづただよし、島津日新斎、じっしんさい)にはじまる。もともとは分家のひとつの相州家の当主であったが、嫡男の島津貴久を本宗家の後継者に擁立する。そして、一族間の抗争を勝ち抜いて覇権を握った。 島津忠良(島津日新斎)は薩…

都之城跡にいってみた、北郷氏が守った「島津」の拠点

宮崎県南西部から鹿児島県北東部にかけて広大な盆地が広がっている。都城盆地は南北約30km・東西約25㎞もの規模があり、2市2町(宮崎県都城市・三股町・高原町、鹿児島県曽於市)にまたがる。 この都城盆地を統治したのが、島津一族の北郷(ほんごう)氏であ…

伊作城跡にのぼってみた(2)、海蔵院跡と多宝寺跡にも立ち寄る

伊作城(いざくじょう)跡へもう一度いってきた。場所は鹿児島県日置市吹上町中原。島津氏支族の伊作氏が拠点とした城だ。 ここは戦国大名としての島津氏のはじまりの場所でもある。伊作城で生まれた島津忠良(しまづただよし)は、分家の生まれでありながら…

精矛神社をお詣りした、加治木で島津義弘の勇武にあやかる

どっしりと威厳のある雰囲気の神社だ。無骨なたたずまいで、境内には静かな時間が流れている。 精矛神社(くわしほこじんじゃ)は鹿児島県姶良市加治木町日木山にある。御祭神は「精矛巌健雄命(クワシホコイヅタケヲノミコト)」。島津義弘(しまづよしひろ…

平山城(帖佐本城)跡にのぼってみた、島津忠良・島津貴久も攻めた西大隅の激戦地

帖佐(ちょうさ)は大隅国の西の端に位置する。場所は現在の姶良市姶良地区(旧姶良郡姶良町)のあたりだ。交通の要衝であり、薩摩国との国境にも近く、たびたび戦の舞台となった。 姶良市鍋倉にある平山城(ひらやまじょう)は帖佐を代表する山城である。別…

岩剣城跡にのぼってきた、島津義久と島津義弘が攻城戦で初陣を飾った

峻険な山が、街並みの中でひときわ存在感を放つ。それが岩剣城(いわつるぎじょう、岩剱城、岩劔城)である。その名がピッタリの鋭く屹立した山城なのだ。 場所は大隅国帖佐郷平松(鹿児島県姶良市平松)。白銀山(しろかねやま)の尾根の先端にあって、三方…

島津歳久の最期の地へ、平松神社(心岳寺跡)をお詣りしてきた

鹿児島市と姶良市方面とをむすぶ国道10号の海沿いの道。平松神社(ひらまつじんじゃ)はその途中にある。ここを車で通過する際に、なんだか気になるのだ。 道路から見える平松神社のノボリ旗 天正20年7月18日(1592年8月25日)、島津歳久(しまづとしひさ)…

島津忠久って何者なの?

公式発表は「源頼朝の隠し子」 島津氏初代の惟宗忠久(これむねのただひさ、島津忠久)の出自については諸説ある。確かなことはよくわかっていない。 『島津国史』という島津家の歴史をまとめた書物がある。これは島津氏第25代当主(薩摩藩第8代藩主)の島津…