ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

タノカンサァ(田の神様)、南九州のあちこちで出くわすぞ

田んぼの畔で見かける。辻に立っていたりもする。神社や公民館で出会うことも。 タノカンサァ(田の神様)の像がものすごくたくさんある、鹿児島県と宮崎県南部には。その数は確認されているだけでも2400体以上にもなるそうだ。 地元の者にとってタノカンサ…

川田神社(大川寺跡)、御祭神は川田義朗、島津家を勝利に導く軍配者

渓流沿いに川田神社(かわだじんじゃ)はある。場所は鹿児島市川田町。かつての薩摩国満家院(みつえいん)のうち。 御祭神は川田義朗(かわだよしあき)である。16世紀の人物で、島津貴久(しまづたかひさ)・島津義久(よしひさ)に仕えた。川田義朗は島津…

新納氏は14世紀から続く、じつは南九州の歴史のカギを握る一族!?

戦国時代の島津氏の家臣には、新納氏の名が見える。それなりに知られている人物としては新納忠元(にいろただもと)とか、新納旅庵(にいろりょあん)とか……。新納氏は島津氏の支族で、その歴史は14世紀の南北朝争乱期よりはじまる。 新納氏についてあらため…

蛭兒神社(蛭児神社)と「なげきのもり」、ヒルコノミコト漂着の伝説が残る

境内は森の中。クスノキの巨木があり、枝葉が空を覆う。蛭兒神社(ひるこじんじゃ、蛭児神社)は鹿児島県霧島市隼人町内に鎮座する。御祭神は蛭児尊(ヒルコノミコト)。創建時期は不明。神代の頃とも伝わる。 また、このあたりの森は「なげきのもり」と呼ば…

米山薬師と総禅寺跡、岩丘の聖地と島津氏豊州家の菩提寺と

鹿児島県姶良市鍋倉のあたりは「米山(よねやま)」とも呼ばれている。この地名は「米山薬師(よねやまやくし)」に由来する。 『三国名勝図会』(19世紀に薩摩藩が編纂した地誌)にイイ感じの絵図もある。 『三国名勝図会』巻之三十八より(国立国会図書館…

島津義弘の年譜、活路を無理矢理こじ開けて乱世を生き抜く

島津義弘(しまづよしひろ)の生涯を年表風にまとめてみた。……なかなかのボリュームに。とにかく戦いが多すぎるのである。 島津義弘は、島津家15代当主の島津貴久(たかひさ)の次男である。16代当主の島津義久は兄にあたる。父と兄のもとで、島津家の軍事面…

島津義弘の戦歴(3) 異国での戦い、関ヶ原からの生還

九州を席巻しつつあった島津氏だが、天正15年(1587年)5月に豊臣秀吉に屈服した。これ以降の島津義弘(しまづよしひろ)の戦いは、豊臣政権下でのものとなる。 天正15年8月から「島津義弘」と名を改める。それまでは「島津義珍(よしまさ)」と名乗っていた…

久満崎神社をお詣り、鎮座地には隼人の伝説が残る

久満崎神社(くまさきじんじゃ)は、鹿児島県霧島市国分山下町に鎮座する。ここでは、隼人(はやと)との関わりが感じられる。御祭神は大山祇命(オオヤマヅミノミコト)。そして隼人神を祀っているとも伝わる。 隼人七隈 かつては山上に鎮座 久満崎神社をお…

姶良脇元の白濱神社、参道には巨木が立ち、目の前には鹿児島湾

国道10号は鹿児島湾岸を通っている。鹿児島市と姶良市とをつなぐ主要道路である。この海沿いの道はとても景色がよい。鹿児島湾と桜島を見ながら走る。陸地側に姶良カルデラのカルデラ壁が続いている。 この道を行き来する際に白濱神社(しらはまじんじゃ)の…

島津義弘の戦歴(2) 大友・龍造寺と激突、そして天下人と対決

天正6年(1578年)から天正15年(1587年)にかけて、九州の情勢は大きく動く。その中での島津義弘(しまづよしひろ)の戦いぶりをたどる。 九州では島津・大友(おおとも)・龍造寺(りゅうぞうじ)の3つの勢力がしのぎを削る。島津氏はこの争いを制し、九州…