ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

高鍋大師にいってみた、古墳のある丘にすごい数の神仏の石像が立ち並ぶ

丘の上に石像がいっぱい! ここは「高鍋大師(たかなべだいし)」と呼ばれている。 妙なセンスが光る石像群 場所は宮崎県児湯郡高鍋町。このあたりの地形は河岸段丘になっていて、段丘の上には持田古墳群(もちだこふんぐん)がある。前方後円墳10基・円墳75…

小林城(三山城)跡にのぼってみた、島津の大軍を跳ね返した伊東氏の前線基地

戦国時代の南九州では、島津氏と伊東氏が覇権を争っていた。その中で、元亀3年(1572年)の木崎原(きざきばる)の戦いがよく知られている。島津義弘(しまづよしひろ、島津忠平、ただひら)が寡兵で伊東方の大軍を打ち負かした、というものである。 一方で…

大友宗麟がキリスト教にのめり込む、そして高城川の戦い(耳川の戦い)で大敗、ルイス・フロイスの『日本史』より

天正6年(1578年)、日向国の高城川原(たかじょうがわら、宮崎県児湯郡木城町)で大友宗麟(おおともそうりん、大友義鎮、よししげ)と島津義久(しまづよしひさ)が激突した。結果は、島津勢が大勝する。大友勢は敗走し、追撃を受けて耳川(みみかわ、宮崎…

宇喜多秀家が隠れ住んだところ、関ヶ原から逃れ逃れて大隅牛根へ

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける脱出劇というと、島津義弘(しまづよしひろ)がよく知られている。美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)から国許の南九州まで、長い道のりを生還した。 関ヶ原から南九州まで落ちのびた大名がもうひとりいる…

『明治維新と神代三陵 廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』(著/窪壮一朗)、神々の陵がどうして鹿児島県にあるのか?

日向三代(ひむかさんだい)の陵(みささぎ)はすべて鹿児島県にある、ということになっている。治定されたのは「可愛山陵(えのみささぎ、えのさんりょう)」「高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ、たかやさんりょう、たかやさんじょうりょう)」「吾…

牛根の太崎観音にいってみた、桜島をのぞむ海辺の石祠

鹿児島県垂水市は海岸線の景色が美しい。桜島は鹿児島市から見た姿がよく知られているが、大隅半島側からの姿も素晴らしいのである。 『三国名勝図会』という本がある。江戸時代末期に編纂された島津氏領内の地誌である。この中には桜島の見える風景の絵図が…

牛根麓稲荷神社の埋没鳥居、桜島の大噴火の凄まじさを伝える

ここは桜島が近い。牛根麓稲荷神社(うしねふもといなりじんじゃ)は鹿児島県垂水市牛根麓に鎮座する。 桜島は日常的に噴火する活発な火山だ。大噴火の記録も残っていて、近い時代では大正3年(1914年)のものがよく知られている。大正大噴火では桜島の中腹…

曽於末吉の平松城跡にのぼってみた、国境の激戦地に築かれた山城

大隅国末吉の平松城(ひらまつじょう)は国境の山城だ。城跡の現住所は鹿児島県曽於市末吉町南之郷。ちなみに小字は「陣ノ山」で、ここに陣取って戦ったことをうかがわせるものである。 このあたりは国合原(くにあいばる)と呼ばれ、大隅国と日向国が接する…

大隅平定、肝付兼亮が降る/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(2)

薩摩国の島津義久(しまづよしひさ)、大隅国の肝付兼亮(きもつきかねあき、かねすけ)、日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)と、南九州では3つの勢力が鼎立。このうち伊東氏と肝付氏は手を結び、島津氏に対抗していた。 元亀2年(1571年)より肝付氏は水軍…

曽於末吉の住吉神社、島津義久も戦勝を祈願した国境の聖地

鹿児島県曽於市末吉町に鎮座する住吉神社(すみよしじんじゃ)を参拝した。御祭神は底筒之男命(ソコツツノオノミコト)・中筒之男命(ナカツツノオノミコト)・表筒之男命(ウワツツノオノミコト)。住吉三神である。 檍原の伝承地 境内をあるく 姥石 島津…