ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

戦国時代の南九州、激動の16世紀(9)菱刈・大口の戦い、薩摩を制圧

島津貴久(しまづたかひさ)は日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市)にも進出する。一方で、伊東義祐(いとうよしすけ)も真幸院への勢力拡大をうかがう。島津氏と伊東氏の野望がぶつかり、そこに肥後国の相良義陽(さがらよしひ)も絡んでくる。抗争…

日新寺跡(竹田神社)・常潤院跡にいってみた、島津忠良ゆかりの地

戦国島津氏は島津忠良(しまづただよし、島津日新斎、じっしんさい)にはじまる。もともとは分家のひとつの相州家の当主であったが、嫡男の島津貴久を本宗家の後継者に擁立する。そして、一族間の抗争を勝ち抜いて覇権を握った。 島津忠良(島津日新斎)は薩…

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』(著/新名一仁)、対立したけど仲が悪いわけではなさそう

戦国時代の島津氏は「強い」というイメージを持たれている。関ヶ原の戦いでの「島津の退き口」のほか、「木崎原の戦い」「耳川の戦い」「沖田畷の戦い」「泗川の戦い」などでの劇的な勝利がよく知られている。映画・ドラマ・小説・漫画なんかでも、このあた…

川尻浦と花礁、開聞岳の近辺を『三国名勝図会』より

海上に突き出すようにそびえる! 開聞岳(かいもんだけ)はよく目立つ。薩摩半島南部では、あちこちからこの山をのぞむ。その存在感は強烈なのだ。南九州では海上交易を行っていた、古代の隼人も中世の豪族も、そして島津(しまづ)氏も。開聞岳は航海の目印…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(8)廻城の戦い、飫肥の役、真幸院の争乱

島津貴久(しまづたかひさ)は西大隅の帖佐・蒲生(ちょうさ・かもう、鹿児島県姶良市)を制圧し、さらなる勢力拡大をうかがう。ただ、反抗勢力を完全に押さえ込んだわけではなく、火種はあちこちにくすぶっている。 rekishikomugae.net そして、味方っだっ…

都之城跡にいってみた、北郷氏が守った「島津」の拠点

宮崎県南西部から鹿児島県北東部にかけて広大な盆地が広がっている。都城盆地は南北約30km・東西約25㎞もの規模があり、2市2町(宮崎県都城市・三股町・高原町、鹿児島県曽於市)にまたがる。 この都城盆地を統治したのが、島津一族の北郷(ほんごう)氏であ…

雄川の滝、『三国名勝図会』より

幾何学模様を思わせる岩壁に水が落ちる。あちこちに伏流水がしたたり、滝壺は鮮やかな青緑色に輝く。「雄川の滝(おがわのたき)」は、なんとも神秘的な雰囲気の場所である。 雄川の滝 滝壺は鹿児島県肝属郡南大隅町根占にある。ここは町境にあたり、滝の上…

『三国名勝図会』(編/橋口兼古・五代秀堯・橋口兼柄・五代友古) 南九州の歴史を知りたければ、ひとまずこの書に訊ねるべし!

当ブログはおもに南九州の歴史をテーマにしているが、参考にすることが多いのが『三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)』である(実際の表記は『三國名勝圖會』)。鹿児島藩(薩摩藩)が編纂させた地理誌で、天保14年12月(1844年1月)に発行された。 明…

知覧の亀甲城跡にのぼってみた、豊玉姫の伝説も残る

鹿児島県南九州市知覧の中心地は、多くの観光客が訪れる場所である。知覧麓(ちらんふもと)の武家屋敷群は江戸時代の雰囲気をよく残す。この一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、武家町にある庭園群は国の名勝にも指定されている。その武家屋…

『関ヶ原 島津退き口 敵中突破三〇〇里』(著/桐野作人)、島津義弘の撤退戦の実像

関ヶ原から長い長い道のり 慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国関ヶ原(せきがはら、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で徳川家康が率いる「東軍」と、石田三成らを中心に結成された「西軍」がぶつかった。双方あわせて20万もの兵がひしめき合う大合戦とな…