ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

戦国時代の南九州、激動の16世紀(5)島津貴久を認めたくない13人、そして鉄砲伝来

島津氏の覇権をめぐる分家の争いは、相州家(そうしゅうけ)の島津忠良(しまづただよし)・島津貴久(たかひさ)父子が薩州家(さっしゅうけ)の島津実久(さねひさ)を圧倒した。天文8年(1539年)、島津貴久(相州家)が実質的に薩摩・大隅の太守となった…

大口城跡にのぼってみた、新納忠元が豊臣秀吉を相手に籠城未遂

大口(おおくち)は薩摩国の北辺である。肥後国・大隅国・日向国と国境を接し、幾度も激戦の地となった。 大口城(おおくちじょう)は現在の鹿児島県伊佐市大口里にある。別名に「牛山城(うしやまじょう)」「牟田口城(むたぐちじょう)」とも。中世におい…

伊作城跡にのぼってみた(2)、海蔵院跡と多宝寺跡にも立ち寄る

伊作城(いざくじょう)跡へもう一度いってきた。場所は鹿児島県日置市吹上町中原。島津氏支族の伊作氏が拠点とした城だ。 ここは戦国大名としての島津氏のはじまりの場所でもある。伊作城で生まれた島津忠良(しまづただよし)は、分家の生まれでありながら…

伊作城跡にのぼってみた(1)、戦国大名島津氏の源流はここにあり

伊作城(いざくじょう)は、鹿児島県日置市吹上町中原にある。ここは島津支族の伊作(いざく)氏の本拠地なのだが、戦国大名としての島津氏の発祥の地と言える場所だったりもする。 本丸の亀丸城跡 16世紀、一族どうしの争いを制して覇権を握ったのは島津忠…

鹿児島城(鶴丸城)跡にいってみた[後編] 日本史上最後の攻城戦、西郷隆盛が城山に散る

戦争になったら背後の山(上之山城、うえのやまじょう)にたてこもる。そんな想定で鹿児島城(かごしまじょう、鹿児島市城山町)は整備されている。のちに籠城は実行される。築城から約270年後のことだった。 鹿児島城の駐車場から城山を見上げる 西南戦争の…

鹿児島城(鶴丸城)跡にいってみた[前編] 江戸時代における島津氏の政治拠点

鹿児島城(かごしまじょう)は鹿児島市城山町にある。通称を「鶴丸城(つるまるじょう)」といい、鹿児島ではこちらのほうで呼ぶ人が多い。 鹿児島城跡の大手門 江戸時代の島津(しまづ)氏の居城であり、この地で藩政を行なった。現在、城の目の前には鹿児…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(4)相州家の復権、島津忠良・島津貴久は南薩摩を平定

島津氏の覇権を分家の薩州家(さっしゅうけ)と相州家(そうしゅうけ)が争う。天文4年(1535年)10月に守護の島津勝久は鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)を出奔し、薩州家の島津実久(しまづさねひさ)が実権を握った。島津実久はこのときに…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(3)島津忠良の逆襲

大永6年(1526年)の政変で、島津宗家(奥州家、おうしゅうけ)では政権移譲が成る。権力を手にしたのは、相州家(そうしゅうけ、分家のひとつ)の島津忠良(しまづただよし)だった。14代当主の島津忠兼(しまづただかね、島津勝久、かつひさ)は引退し、後…

南郷城跡にのぼってみた、この城の奪還から島津忠良が盛り返す

南郷城(なんごうじょう)は鹿児島県日置市吹上町永吉にある山城だ。別名に永吉城(ながよしじょう)とも。ここは、天文2年(1533年)に島津忠良(しまづただよし)によって攻め落とされた。その後、守護家の島津勝久(かつひさ、島津宗家14代当主)が城の奪…

戦国時代の南九州、激動の16世紀(2)薩州家の急襲、島津勝久の心変わり

領国経営に行き詰まった島津宗家(奥州家、おうしゅうけ)では、大永6年(1526年)に政権交代が実行された。14代当主の島津忠兼(しまづただかね、のちに島津勝久と改名)は引退し、新たに分家の相州家(そうしゅうけ)から島津貴久(たかひさ)が養子入りし…