鹿児島県姶良市鍋倉にある「島津義弘居館跡(帖佐御屋地跡)」に行ってきた。島津義弘(しまづよしひろは)は文禄4年12月(1596年1月か)から慶長11年(1606年)にかけてこの地を居館とした。「帖佐館(ちょうさやかた)」「帖佐御治所(ちょうさごちしょ)…
建昌城(けんしょうじょう、たてまさじょう)跡は鹿児島県姶良市西餅田にある。現在、山城の南側には九州自動車道が通る。城跡の山塊は、桜島サービスエリアからも見える。 建昌城を桜島サービスエリア(上り線)より見る もともとは瓜生野城(うりうのじょ…
15世紀の南九州は、ずっと戦乱つづきであった。守護家である島津氏に分裂があり、家督相続問題もあり、そこに対立が生まれた。さらには、旧来からこの地にある国人衆もたびたび反抗する。守護家は支配体制を確立していこうと戦いを重ねていった。 しかし、安…
伊作久逸(いざくひさやす、島津氏庶流)の乱に端を発して、文明16年(1484年)から翌年にかけて島津氏領内に戦火が広がった。島津宗家11代当主の島津忠昌(しまづただまさ)は苦労しながらも、なんとか混乱をおさえ込んだ。 rekishikomugae.net rekishikomu…
文明6年(1474年)、島津忠昌(しまづただまさ)が島津宗家の当主になった。しかしながら、忠昌はもともと後継者に指名されていなかった。寺に入っていたところ呼び戻され、還俗して家督をついだのである。しかも12歳とまだ若い。代替わりした島津宗家は、だ…
島津立久(しまづたつひさ)は、父である9代当主の島津忠国(ただくに)を追放して実権を握り、実質的な当主であった。島津立久は分家・一門衆・国衆の協力も得ながら、混乱を治めていく。攻め滅ぼしたり、あるいは懐柔したりと、敵対勢力への対応もうまくこ…
15世紀中頃、南九州は島津忠国(しまづただくに、宗家9代当主)の天下となった。反抗勢力をおさえ込み、国人衆への影響力を強めた。また、島津忠国は弟たちを分家に立てて要所に配置し、島津一族による支配体制を強化していく。 rekishikomugae.net rekishik…
島津久豊(しまづひさとよ、島津宗家8代当主)は領内経営の手腕に長けた人物であった。強引に当主の座につきつつも反抗勢力を従え、領内の平定をおし進めた。しかし、領内はまだまだ不安定。地固めはこれから、というところで逝去する。強い当主がいなくなっ…
南九州を支配した島津氏は分家・庶家が多い。これらは宗家を支える存在であったり、あるいは敵に回って混乱をもたらす存在であったりもした。14世紀から15世紀に成立した島津氏の一門家について、それぞれまとめてみた。 所領にちなんだ名乗りの支族 宗家の…
応永24年(1417年)、島津久豊(しまづひさとよ、宗家8代当主)は伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)を降伏させた。島津宗家(奥州家)の後継問題に端を発した争い(伊集院頼久の乱)は、ひとまず決着する。 rekishikomugae.net rekishikomugae.net 薩摩の…