伊作久逸(いざくひさやす、島津氏庶流)の乱に端を発して、文明16年(1484年)から翌年にかけて島津氏領内に戦火が広がった。島津宗家11代当主の島津忠昌(しまづただまさ)は苦労しながらも、なんとか混乱をおさえ込んだ。 rekishikomugae.net rekishikomu…
文明6年(1474年)、島津忠昌(しまづただまさ)が島津宗家の当主になった。しかしながら、忠昌はもともと後継者に指名されていなかった。寺に入っていたところ呼び戻され、還俗して家督をついだのである。しかも12歳とまだ若い。代替わりした島津宗家は、だ…
島津立久(しまづたつひさ)は、父である9代当主の島津忠国(ただくに)を追放して実権を握り、実質的な当主であった。島津立久は分家・一門衆・国衆の協力も得ながら、混乱を治めていく。攻め滅ぼしたり、あるいは懐柔したりと、敵対勢力への対応もうまくこ…
15世紀中頃、南九州は島津忠国(しまづただくに、宗家9代当主)の天下となった。反抗勢力をおさえ込み、国人衆への影響力を強めた。また、島津忠国は弟たちを分家に立てて要所に配置し、島津一族による支配体制を強化していく。 rekishikomugae.net rekishik…
島津久豊(しまづひさとよ、島津宗家8代当主)は領内経営の手腕に長けた人物であった。強引に当主の座につきつつも反抗勢力を従え、領内の平定をおし進めた。しかし、領内はまだまだ不安定。地固めはこれから、というところで逝去する。強い当主がいなくなっ…
南九州を支配した島津氏は分家・庶家が多い。これらは宗家を支える存在であったり、あるいは敵に回って混乱をもたらす存在であったりもした。14世紀から15世紀に成立した島津氏の一門家について、それぞれまとめてみた。 所領にちなんだ名乗りの支族 宗家の…
応永24年(1417年)、島津久豊(しまづひさとよ、宗家8代当主)は伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)を降伏させた。島津宗家(奥州家)の後継問題に端を発した争い(伊集院頼久の乱)は、ひとまず決着する。 rekishikomugae.net rekishikomugae.net 薩摩の…
松尾城(まつおじょう)跡は鹿児島県姶良郡湧水町木場にある。別名に栗野城(くりのじょう)とも。天正18年(1590年)から文禄4年(1595年)にかけて、島津義弘(しまづよしひろ)が居城とした。 本丸跡 城域は運動公園として開発されているが、曲輪や堀など…
鹿児島県南九州市知覧にある知覧城(ちらんじょう)跡を訪問。シラス丘陵に築かれた山城で、浸食谷の多い地形をいかした堅固なつくりとなっている。城域は約41haと広大で、中世の山城の痕跡をよく残す。国の史跡にも指定されている。 築城年代は不明。築城者…
一宇治城(いちうじじょう)跡は鹿児島県日置市伊集院にある。別名に伊集院城(いじゅういんじょう)や鉄丸城(てつまるじょう?)など。シラス丘陵に築かれた山城で、周囲は約2.3㎞。三方が断崖で、天然の要害である。域内には神明城(しんめいじょう、本丸…